過去10年間の職歴の振り返りと気づき その1

 

過去10年間の職歴の振り返りと気づき その1です。

今年、65歳になりましたので、10年前からの職歴を振り返ってみました。
 
55歳の時は、日本ヒューレットパッカード(以下日本HPと略)のグローバル購買本部のカテゴリー部長をしていました。
 
お仕事は、日本HPが購入する間接商材の契約を行うグループのまとめ役でした。
 
当時の日本HPの売上は、4000億円で、間接商材(含むハードウェア・ソフトウエアを含む)の金額は、その3割くらいだったと思います。
 
私の上司は、海外のダイレクター(部門長クラス)でした。
 
当時の職場の最大の課題は、日本の組織やプロセスが、日本固有の形になっており、それをグローバルの組織やプロセスに統合することと、コスト削減を推進することでした。
 
私の大卒後の職歴は、下記のとおりです。
 
東京理科大学経営工学科卒業→テルモ株式会社(営業職、2年7ヶ月在籍)→
 
横河ヒューレットパッカード株式会社(社名は、その後、日本ヒューレットパッカード→アジレントテクノロジー株式会社と変化)(購買職、22年)
 
->アズワン株式会社(購買職、2年)→D&Mホールディングス株式会社(購買職、2年)→EDS有限会社(社名は、その後、日本ヒューレットパッカード)
 
→中小機構(販路支援部、3年)→フェーズワン株式会社(購買職、3年)→大田区産業振興協会(販路支援、2年)→JICA(購買職1年)
 
日本HPに2回目の入社をした理由は、HPが、EDSを買収したためです。
 
当時のHPは、買収により、株主との約束を果たして、株価を高める戦略でした。
 
EDSは、サービスビジネスで、世界2位でした。HPは、世界5位くらいだったと思います。EDSを買収して、サービスビジネスで、世界2位になりました。
 
2回目に入社した日本HPは、残念ながら、10年前のエクセレントカンパニーではなく、買収と買収後のリストラを繰り返す会社になってしまい、
 
人を大切にする社風は、すっかり無くなり、ただのコモディティー会社になってしまったという印象を持ちました。
 
理由は、当時の社長さんが、買収による成長と株主との約束を守る戦略をとっていましたので、
 
開発投資は、大幅に抑えられて、優秀な開発エンジニアがどんどん抜けてしまったようです。
 
その10年くらい前までは、世界で最新の技術を誇る製品を次々に生み出す素晴らしい会社でした。
 
開発投資は、水物ですから、当時の経営層が、自分の進退をかけるのを嫌ったという印象が強かったです。
 
日本HPを退職したのは、リストラの対象になったためです。
 
海外の上司に、「なぜ、私が、対象になったのか?」と聞いたところ、「三宅さんは、過去からの評価が高く、給与が高い。今回のリストラの目標は、人数と削減できる人件費です。」
 
と言われて、納得は、しませんでしたが、そのロジックは、よく理解できたことを覚えています。
 
日本HPを退職することになり、転職先を探し始めました。
 
転職サイトの数社に登録して、毎日、レジメを送る日々が始まりました。
 
 
その中で、「中小機構の新市場開拓コーディネーター」を見つけました。
 
中小機構という組織をそれまで、知りませんでした。資本金が1兆円で、中小企業支援の元締めのような組織だなあと思いました。
 
自分の職歴とのマッチングは、低いと思いましたが、ダメもとで応募したところ、最初に内定がもらえました。
 
職種は、「登録専門家」というもので、中小機構から、「あなたは、月何日来てください。」と言われる流れでした。私の仕事は、月8日で始まりました。
 
入社すると「ジェグテック」という中小企業と大企業のマッチングサイトを立ち上げている時期で、そのための支援をすることになりました。
 
具体的には、登録する「中小企業」と「大企業」の勧誘でした。
 
中小企業は、リストが渡されて、コールセンターのように、一日何件電話してくださいというものでした。
 
同じ職場のコーディネータは、10名くらいで、メーカーの技術部長や商社の部長が多かったです。購買職出身は、私一人でした。
 
半年後に、ジェグテックを海外に広めるという話になり、東南アジアの政府機関と提携して、海外企業を招聘して、中小企業との商談会が始まりました。
 
通訳付き、私も商談に立ち合い、有望案件は、フォローをして、成功事例を作る活動をしていました。
 
何件か、良い成功事例が作れて、よかったなあと思いました。
 
続きは、その2です。

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