私の歩いてきた道。(ソーシャル編 その6)アズワン入社からHPに戻るまで。
私の歩いてきた道。(ソーシャル編 その6)アズワン入社からHPに戻るまで。
アジレントを退社することを決めてから、転職活動を行いました。
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関西に購買管理職の仕事はあまりない中、アズワンにお世話になりました。
アズワンに決めた理由は、
①商社なのに、粗利が3割という高い利益率。
②購買という機能は、業種や社風が変わっても、普遍的な価値を創出できると信じていたため。
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入社して、困ったことは、アズワンの社内で使われる関西弁が理解できなかったことです。
アジレントの神戸事業所は、関西出身者が多いとはいえ、
元々八王子にいた人が移動して作った事業所ですから、
関東風の仕事のやり方や考え方が普通に通用しました。
アズワンの創業者は、和歌山県の出身で、同族経営でした。
社長は婿さんで、本家の奥様が、実質的なNo.1でした。
アズワンは、大阪の下請け業者2000社から商品を仕入れます。
その方法が少しきわどく、同じ業界の中でも少し変わった会社と思われる傾向がありました。
そのため、サプライヤーさんとの話は、厳しい話も多かったと記憶しています。
特に、怒るときは、最初に、褒めてから商談に入る。
また、褒める時は、最初に怒ってから入るという感じで、
全く自分の思う通りに行きませんでした。
社内会議で意見を述べると。。「三宅さんの話は、いつもオチがないな〜」とよくいじられました。
また、結論がはっきり述べられない会議が多く、
空気が読めない私には、結論がわからず、
後で、関係者に確認することがしばしばありました。
ある時、会社のファックス番号の一番違いが電話番号の一般家庭からクレームが入ったので、
謝りに行くようにと上司に言われました。それも西成区でした。
必ず、高島屋などの高級デパートでの菓子折りを持参するように強く言われました。
そのようにして、持参して訪問すると、最初は、「何しに来たんや」という感じでしたが、
菓子折りを出して、平謝りをすると急にニコニコして、「そんなに気を使わんでもええのに」と言ってくれました。
ご機嫌が良くなったと思い、早々に引き上げました。
休みの日に、天王寺動物園からジャンジャン横丁に遊びに行きました。
天王寺動物園に行く途中の道では、朝から、いっぱい飲んだ方々が、
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路上カラオケで大音声を出していました。
1曲100円のようでした。すごい世界があるんだなあと思いました。
その後、ジャンジャン横丁に行き、お店を覗きながら歩きました。
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賭け将棋をするお店に人がいっぱいいて、すごい熱気だなあと思いました。
安くて美味しそうなお寿司屋さんに入ろうと思いましたが、足が止まりました。
いつもとと違う雰囲気に自己防衛システムが反応したようでした。
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西成暴動という言葉を知りました。
大阪では、暴動が起きると警察隊は、突入して、鎮圧するのではなく、
遠巻きにして、被害が他に広がるのを防いでいるように見えることもあることを知りました。
大阪市内で乗ったタクシーの運転手の方から、
阪神タイガースが優勝した時に、暴徒化したファンと思われる方々が、
近くのタクシーを横転させてしまったと聞きました。
その時も警察隊は、遠巻きに見ていたとのことでした。
警察官の数は、東京だけ異常に多く、
しかも大型イベントの時は、他の県から応援を集めるで、
さらに都心では、多い印象があります。
でもこれは、東京だけの特殊な状況であることがわかりました。
大阪は、神戸とは、まったく違う街だということをやっと理解しました。
このままでは。。。と思い、関東で外資系でメーカーに転職活動を開始しました。
結果、D&Mホールディングスというプレミアムオーディオの会社に転職することになりました。
購買部門は、川崎本社と福島県の白河の2箇所にあり、
川崎では、課長。白河では、部長待遇するので、どちらにするかと聞かれました。
川崎で課長でお願いしますと即答しました。
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理由は、子供が中学生と高校生なので、単身赴任はしたくないなあと思いました。
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川崎本社から近いところで、新居を探しました。
検討したところ、新川崎と鹿島田が近い新川崎パークシティのマンションに決めました。
理由は、テニス・コートがマンション内に2面あり、住民は、無料で使えるため。
それと、かみさんは、近くにフィットネスクラブがあることでした〜
D&Mに入ってみると、長銀を買ったハゲタカファンドが、
日立グループから売られた日本コロンビア(デノン)とフィリップスに売られたマランツを
同じ傘の下に従えるという不思議な会社でした。
デノンは、設計基準や品質保証の社内規定をみると日立グループ時代のドキュメントが出てくる会社。
ソフトウェアを駆使して、良い音を出す会社。
マランツは、金メッキをコネクターに使ったり、
銅線をたっぷり使ったトランスや良い音が出るコンデンサーを特注する
ハードを駆使して良い音を追求する会社。
全く社風やものづくりの考え方が違う会社が呉越同舟する感じでした。
私が入社した製造部門は、デノンとマランツが融合した部署というお話でしたが、
実態は、デノンの製造部とマランツの製造部とに真っ二つに分かれていました。
白河は、デノン。川崎は、マランツ中心でした。
デノンの方がマランツより売上が2倍以上あることもあり、
デノンは、兄貴。マランツは弟という感じでした。
私を採用した製造部門の社長は、1年足らずで退職して、その後任を社外から迎えることになりました。
その方が、購買部門が川崎と白河にあることは非効率ということを言い出して、
川崎の購買部門は、白河に統合されることになりました。
社長から、呼ばれて、白河に行くようにとの指示をいただきました。
自分の入社時の経緯を説明して、私は、川崎に残りたいと申し出ました。
社長からは、川崎の購買部門の中で川崎に行く人をまとめて連れて行くのは、三宅の仕事だと言われました。
という流れで、白河に10数名の社員を連れて行く調整をすることになりました。
諸事情で行かれない人を除いて、
大半の方と白河に異動して、自分も白河に単身赴任となりました。
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最初は、単身赴任は、楽しいかなあと思って期待しましたが、
行ってみると期待が過剰であったことがだんだん実感してきました。
そして、「私は、なぜ白河にいるのかなあ?」と思うようになりました。
会社の同僚から、正門の坂道は、真冬になると凍ってしまい、
運動靴や革靴では、登れないよ。
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ゴム長靴で、底がスパイクになったものを買わないとダメだよ。
早く、三宅さんが、その靴を履いてあの坂道を登る所を見たいものだと言われました。
その時に、冬になる前に転職してやると強く思いました。
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転職活動を始めるとEDSという会社が、
日本の購買部長を募集しているので、
応募しないかと転職エージェントに言われました。
「ああ、いいよ」と言って、レジメを送ったら、
オーストリアにいるAsiaの統括Managerが電話インタビューをしたいという連絡がエージェント経由で入ってきました。
指定された日の午前10時に自宅で電話を待っていると、
電話がかかってきません。10分待ち、20分待ち。
エージェントに「電話来ないよ」と連絡したら、すぐにかかってきました。
少し話をしたら、来週日本に行くから会えないか?と言われました。
「ああ、いいよ」ということで、渋谷のEDSのOfficeで会いました。
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その人は、クリスさんと言って、背は、185cmくらいの大男で、
私より、一回り大きかったです。
クリスさんは、職場の課題を挙げて、三宅さんならどのようにする?と聞かれました。
あまり、複雑な質問ではなかったので、サラサラと答えました。
クリスさんは、それをニコニコしながら聞いていました。
「ああ、これは、合格だなあ」と確信しました。
話が一区切りついたところで、日本EDSの社長がいるか、
ちょっと見てくると言って席を立ちました。
しばらくして、いなかったので、その人が最終面接をやるだろう。
でも私は、あなたが気に入ったと言ってくれました。
その後、日本の社長の下で、COOをされている方の面接がありました。
少し話をした後に、「あなたのレポートラインは、クリスだから、私は、問題ないよ」と言いました。
「これは、合格ということかな」と思いました。
エージェント経由で内定通知をいただいた翌日に、上司の部長さんに退職する旨を告げました。
すると「羨ましい」と言われました。
その部長さんは、中学卒の方でしたが、
人の気持ちに対する心配りがきめ細やかな方でした。
納期督促で、サプライヤーさんに行く時は、肩で風を切ってすごい勢いで強気の交渉や寝技のような交渉ができるとても不思議な方でした。
EDSは、渋谷にあり、購買部は、私を含めて3名でした。
私以外の2名は、コスト交渉や購入条件の交渉をしないのが、購買だという不思議な方々でした。
そのような中で、コスト交渉や購入条件の交渉や契約を全て私がやることになりました。
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EDSは、世界で2番目のシステムインテグレーター
(SIer。顧客要求で、ハードやソフトを購入して、顧客希望のシステムやソリューションを提供する会社)
でしたが、日本では、売上が、数十億規模の弱小SIerでした。
HPが、西海岸のスタンフォードの学生が作った会社ですから、
会社の方針と違うことを公言してもクビになることはありませんでした。
EDSは、テキサスの会社で、アメリカ軍でIBM製品の運用をしていたロス・ペローが興した会社でした。
アメリカ政府のお仕事をたくさんもらうために、兵役を終了した方を積極的に採用していました。
EDSは、上司に逆らうとすぐにクビになりました。
それは、軍隊と同じだったからです。
でも上司の期待に沿って頑張るとすごく良い評価をくれて、
困った時の支援は、身を呈して私を守ってくれました。
「Your success is MY SUCCESS」あなたの成功は、私の成功です。
とよくいってくれました。こんなに熱い上司は、初めてでした。
ある日、会社に来ると、「Welcome to Hewlett Packard」というメールが飛び込んできました。
HPがEDSを買収したのでした。
それから、色々ありましたが、HPの間接購買部門に行くことになりました。
ある日、EDSで働いているときに、自宅から電話がかかってきました。
かみさんのお父さんが、脳梗塞で倒れて、緊急入院したとのことでした。
かみさんと子供は、すぐそちらに行くことになり、
私もそれを追いかけて行くことになりました。
机の上を片付けていると、また電話がかかってきました、
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母がいる特別養護老人ホームからでした。
「すぐにきてください。危篤です。」
その時に、なんとなく母の死を意識しました。
カミさんに連絡して、私は、母の所に行くことにしました。
母は、すでに亡くなっていました。
母は、数年前に転んで、骨折をしてから車椅子の生活になっていました。
本人の希望もあり、近くの特別養護老人ホームに入居していました。
100名くらいの入居者で、まともな会話ができるかたは、母を含めて2名でした。
そちらでは、絵画・習字・俳句などで、母の作品がいつも飾られていました。
そちらに入りながら、ものみの塔の集会や布教活動をしていました。
また多くの姉妹や兄弟(宗教上の同志)が毎日のように顔を出していました。
特養の入居者の方には、親族の方がほとんど来られないかたが多く、
来られてもお正月や夏休みという方がいるだけでした。
その意味で、特別な存在だったのかと思いました。
その後、脳梗塞を起こし、救急搬送されました。
最初は、中程度で、2週間もすると自分で嚥下(口に入れて、咀嚼して飲み込むこと)ができるようになってきました。
これができないと特養に戻れないのです。
その回復力に担当医は驚き、私たち家族も安心してきました。
退院の二日前にまた脳梗塞が起きました。こちらは大でした。
それでも、2ヶ月後に自分で嚥下できるようになりましたので、特養に戻って行きました。
特養に戻ると今までのように、集会に行ったり、布教活動は、もうできなくなっていました。
私と兄が、毎週交代で通う日々が始まりました。
しばらくして、母の個室に行って、「やあ」というと
「どなたさまですか?人の部屋に勝手に入ってこないでください。人を呼びますよ。」と言われました。
ああと思いましたが、次のステップに移ったのかなあと思いました。
2週間後に行くと、「たっちゃんよくきたね。今日は、泊まって行く?」と言われました。
私のことを息子であることがわかるようですが、特養に家族とはいえ泊まれないことがわからなくなっていました。
そのような状況が6ヶ月続きました。
だいたい2週間ごとに「ジキル」と「ハイド」が交代で訪れました。
そのような生活がいつまで続くのかなあという気持ちと
ずっと続いて欲しいという気持ちを持っていました。
母の右足の親指から壊疽が始まっていました。
定期的にガーゼ交換するのですが、最初は部屋中に響き渡る悲鳴をあげていました。
そのうちに壊疽の部分の痛みを感じなくなったのか、
ガーゼ交換をしても悲鳴をあげなくなっていました。
お亡くなりになった前の晩は夕食が食べられず、
大好きなアイスクリームを小さじ一杯食べるのがやっとだったとのお話を伺いました。
母がなくなって、一番驚いたことは、自分の胸に大きな穴が空いたことです。
今まで、父や祖父の臨終を見てきましたが、
穴が開くという感じでは、ありませんでした。
その穴は、大きいだけでなく、なかなか小さくならなりませんでした。
半年ぐらい経ってから少しづつ小さくなったと思いますが、
今もまだ小さな穴が空いたままになっています。
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