私の歩いてきた道。(ソーシャル編 その5)

私の歩いてきた道。(ソーシャル編 その5)神戸赴任からアジレント退社まで。

YHPの神戸事業所は、1992年に出来ました。

当初は、購買部門も神戸に作る予定でしたが、その直前の景気後退の影響を受けて、購買は、八王子からリモートサポートになりました。


その後、大人の事情で、1995年2月から神戸事業所に購買部門を作ることになりました。

八王子の購買部門の責任者であった私は、神戸に購買部門を作るプロジェクトの責任者に任命されました。


上司に、「誰が神戸に行くのですか?」「そりゃあ、お前だよ」と言われ、神戸に行くことが決まりました〜


1995年1月14日から16日は、3連休でした。

2/1に赴任するための下見旅行(家や学校の手続きをする)に神戸に、カミさんと息子(5歳)と行きました。

1/15は、すでに神戸に赴任されていたヒデさんに神戸と明石のツアーに連れて行ってもらいました。

写真は、震災後と思います。

震災前の魚の棚のお寿司屋さんで美味しい地元のお魚を楽しみました。

1/16は、神戸でHPの営業をされていたタケちゃんから三木のご自宅に呼んでもらい、手巻き寿司パーティで盛り上がりました。


1/17の早朝にグラグラっときました。

寝ていたカミさんとタケちゃんの奥さんの宮ちゃんがキャア〜と大きな声を出していました。

カミさんは、息子を起こそうとしたので、「起こすな」と言ってほっておいたら、

しばらく寝ていました。なぜ「起こすな」と言ったかは、今もわかりません。


タケちゃんが起きてきて、二人で、携帯ラジオをつけて聞いていました。

電気とガスは、すぐに止まっていました。水は、出ていたと思いました。


ラジオを聞いていると関西地方の震度を読み上げていました。

大阪 震度6。でも神戸は、読み上げませんでした。あれ?とタケちゃんと顔を見合わせました。


あとで、震度計が振り切れてしまったという話を聞きました。


タケちゃんと宮ちゃんは、近くのコンビニに行って、買い出しをしてくれました。

コンビニの棚のものは床に落ちて、商品の取り合いが始まっているという状況であったとのことです。

電気が2時間くらいで通じたのですが、どこにも行けない感じでした。

情報収集が必要と思い、テレビを見ていました。

あとは、どんどんお亡くなる人の数が、画面の右上に出るテレビをずっと見ていました。

神戸周辺の鉄道は、すべて寸断されて、関東に帰る方法が見つかりませんでした。

仕方ないので、タケちゃんとゴロゴロしていました。

翌朝5時に起きると、福知山線が、広野から出ているようでした。

宮ちゃんに唐揚げおにぎり弁当を作ってもらい、タケちゃんに広野まで送ってもらいました。

広野駅に着くと、福知山まで行くとのこと。

ただし、いつ着くか、わかりません。それでもいいですか?と聞かれました。

「はい。」なぜか、帰れる予感がありました。

福知山から山陰本線に乗り換え、京都駅に到着。

新幹線に乗り換えて、席に座り、新幹線が発車した時に、どっと疲れが出てきました。

その後、自宅に到着すると家族3人、高熱を出して、ダウンしました。

翌日は、お休みをもらい、次の日に、会社に行って現状を報告しました。

でも私の仕事は、神戸にしかないことに気がつきました。

2/1赴任を3/1に変更してもらい、神戸の購買部門の立ち上げに神戸に通う日々が始まりました。

神戸電鉄の鈴蘭台駅です。参考写真です。

会社は、西神南にありました。大阪から三田経由神戸電鉄で鈴蘭台まで行き、

そこからタクシーで、西神中央のオリエンタルホテルや西神南の神戸事業所に通いました。

その後、阪神間の電車が少しづつ復旧してきて、ここは、阪急。ここからJRなどとCarryOnのカバンを引きづりながら通いました。

神戸事業所の自慢の大理石の壁はかなり落ちましたが、

建物が、免震構造であったため、大きなダメージは、ありませんでした。

神戸の製造部は、震災の日の二日後に製品の再出荷を始めるという奇跡を起こしました。

従業員や協力会社のみなさんは、ご自宅が被災しているのも関わらず、

会社に来て、与えられたお仕事を黙々とこなしていました。

まるで、震災の影響を忘れようとしているように。

2/27に相模原の上溝から西神中央の社宅に引っ越すことになりました。

家族を伴って、大阪あたりで、宿を探しましたが、全く見つかりませんでした。

やっとHayettで一泊5万円のスイートルームの予約が取れました。上司に確認したら、それで良いとのことでした。

職場の女性に作成していただきました〜

神戸の生活が始まりました。

まず驚いたのは、長田で被災された方が、長田に仮設住宅を建ててほしいと強く要求していた点でした。

長田は、街の中心が、火事で、延焼したこともあり、空き地は、あまりありませんでした。

神戸市は、空き地が多い西区や北区を中心に仮設住宅を建てていきました。

神戸の復興を見ていると神戸市が主導して進めているというより、

旧住民がプランを作り、それを神戸市が認めていくという流れでした。

住民の皆様が、自分たちの街を1日でも早く復興したい、

そのためには、神戸市に任せていては、時間がかかるという発想であったと思いました。

そのため、神戸の復興はすごいスピードで進み、

2年経つと外見での復興がほぼ完了したように見えるまでになりました。

東日本大震災の復興のスピードが上がらない理由の一つがこのような住民意識の違いかなと思っています。

https://www.youtube.com/watch?v=uSNUZotjcZU

1995年の12月に神戸でルミナリエが始まりました。

私もかみさんと6歳の長男、2歳の長女を連れて参加しました。

夕方の点灯時間が近ずくと会場にどんどん人が集まってきました。

交通整理をする警察官が見当たらないかな、どんどん後ろから押されて、

寿司酢め状態になっていきました。これは、やばいと思います。

10メートル離れた大丸まで避難することにしました。

しかし、人の流れに逆らって乳母車に乗った長女を連れての移動は、困難を極めました。

「すいません。。。通してくだい。。乳母車を通してください。」

「こっちだって乳母車や。身動きできん。あかんあかん!!」

と言われる中をなんとかかき分けて、大丸の入り口に到着しました。

10メートル進むのに、30分くらいかかりました。

多分、パニックになっていました。

それから明石に出て、中華料理を食べて自宅に帰りました。

西神南の仮設住宅。参考写真です。

西神中央には、大きな公園が、ありましたので、そこに復興住宅が建ち始めました。

ある日、かみさんが自転車を目の前で盗られたと言ってきました。

「お前は大きなうちがあるだろう。」

「わし達には、住むところもないんや。自転車ぐらいいいやろう。」ということでした。

おまわりさんに届けましたが、自転車は、戻ってきませんでした。

その後、私の自家用車が自宅の車庫に入れているのに、

車上荒らしにあいました。それも2回です。

警察に取り締まりの強化を依頼しました。

近所では、お風呂ののぞきが頻発しているという話を聞きました。

どうやら、それらの悪事は、被災者の方ではなく、

被災者に紛れて、入ってくる不届き者のようでした。

定常状態なら、不審者は目立つのですが、

被災人口の方が、住民より多い、異常事態の中では、

そのような輩が入り込んでくることを初めて知りました。

同様の話は、東日本の大震災でも聞きました。

神戸事業所は、体育館にあるシャワー室を一般の方々に解放して、

被災者の皆様から、「ありがとう」のお言葉をいただきました。

同じ震災を経験した同士ということで、

従業員・パート社員・アルバイト・協力会社の社員に関係なく、

一つの大きなコミュニティが出来上がっていきました。

病気で会社を退職された太田さんの送別会です〜

その後、HPが、プリンター・PC・サーバー事業とその他に分社する話が決まり、その他の事業はアジレントという会社になりました。

これは、Agility(俊敏性)から作った造語で、

株式市場の略称が、「A」となり、最初に表示されるからであったと聞きました。

もともと分社を想定していない中、1年以内に分社を完了するという方針から、

Clone and Go(同じシステムを2つ作って、

それぞれの会社のインフラにする)という考えで分社が進みました。

当時、コンピュータ関連の売り上げが、4兆円。その他は、1兆円でした。

つまり売り上げ1兆円が、5兆円の会社のインフラを使うということになりました。

そんなことがうまく行くかなあと思っている中で、2000年のITバブルが始まり、毎年1000台売れていた測定器が、毎月1000台売れるバブルが、始まりました。

理由は、携帯電話の普及で受動部品の生産が数倍になり、

そのための生産用の測定器の注文が入ったということでした。


「山高ければ、谷深し」と言いますが、行きすぎた投資の調整で、

アジレントの売り上げは、大幅に落ち込み、赤字が定常状態の会社になりました。

開発購買に関わっていたので、いただいたテレカです〜

その解決策として、世界で30箇所以上ある生産拠点を3つに集約することになりました。

神戸の生産は、すべてマレーシアのペナンの工場に移管することになりました。


その後、製品を10個のグループに分けて、順次移管することになりました。

つまり、神戸事業所の製品の売上が、3年くらいかけて、少しづく減っていくという意味です。

購買機能の移管もすることになり、25人いた購買部門を最終的には、数名まで減らすことになりました。

そのため、数回にわたり、人員の削減をすることになり、

自分が採用した優秀な社員や派遣さんに会社を卒業してもらうようになりました。

最初は、形通りに行いましたが、途中から、アレンジして、

少しでも心安らかに卒業できるように大人の工夫を行いました。

最後は、自分も会社を辞める決断をしたので、

肥後橋にあるアズワンという理化学系の商社に転職することになりました。

10年間の神戸での生活はいろいろ大変なことがありましたが、

新しい場所で新しい人たちと新しいネットワークを作り、

新しいコミュニティを作っていくというものでした。

このような体験をさせてもらったみなさまに感謝しています。


神戸に赴任している間に、父の健康状態が悪くなっていきました。

お酒を飲みすぎて、自宅で倒れて、近所の病院に緊急入院することが、何回かありました。

お酒を止めることになり、本人と母の了解を得た上で、

「身体拘束」をして断酒をすることになりました。

具体的には、ベットに手首のあたりを縛って、動きを制限する方法でした。

2週間ぐらいで、お酒が抜けて、70年以上の人生の大半を一緒に過ごしたアルコールとお別れをしました。

その後は、一切お酒を飲まなかったようでした。

お酒を止めたので、長生きしてくれるかなあと思っていると、

今度は、急に意識がなくなって、病院に緊急搬送されました。

ICUに入ったので、一旦安心したのですが、

翌朝には、お亡くなりになったとの知らせを受けました。

父が亡くなった後、母の様子が安定するまで、2年くらいかかりました。

それだけ、お互いに深い関係であったのかなあと思いました。

持病の関節リュウマチの進行は、止まったようですが、

左足がくの字のように湾曲していました。

それでは、精力的にものみの塔の集会や布教活動を続けていました。

しばらくして、母が、転んで、骨折したとの連絡が入りました。

歩けるようになるには、外科的な手術が必要になりました。

ものみの塔では、輸血は、行わないことになっていたので、

輸血をしない手術の可能性を聞きましたが、

それはないとの担当医の説明があり、手術はせずに車椅子の生活が始まりました。

自宅をバリアフリーに改造して、自宅での生活が始まりました。

車椅子になりましたが、ものみの塔の集会への参加や伝道活動は、積極的に続けていたようでした。

真夏の金比羅様です〜

神戸にいる間に関西の各地に、行こうかなあと思っていました。

流しそうめんです〜

家族でドライブや小旅行を行いました。

娘の書いたパパの顔だそうです〜

海外は、タイ。国内は、城崎、白浜、金比羅様、丹波篠山、京都、姫路城、です。

神戸市内の公園にて。

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