私の歩いてきた道。(ソーシャル編 その3)大学時代から社会人のテルモ時代

大学3年夏。山中湖にて。

大学は、東京理科大学に行きました。

理由は、最初に合格したからです。

その時の受験は、第一志望:筑波大学の社会学類、第二志望は、慶応の経済。第三以下は、理科大経営工学科、香川大学の経済などでした。

東京理科大学を最初に受けました。

合格発表を見にいきましたが、番号はありませんでした。

少し落ち込んで、自宅に帰ると、「どうだった?」「ダメだった。」

「落ちたの?」「本当に落ちたの?」「本当?」と3回聞かれました。

その時に、母親を怒りました。。。なんて、デリカシーがないやつなんだ。。。

「だって、たっちゃんが落ちるとは思わなかったんだよ〜」

2日後に補欠合格がきました。

後で、理科大は、早慶の滑り止めで受ける人が多いので、補欠合格を多めに出すんだよと教わりました。

私の時は、100名の定員に補欠合格を200名出して、166名が入学したそうです。

補欠合格がきた日から、毎晩友人の家を泊まり歩いて、麻雀を毎日やっていました。

最長で連続40時間ということがありました。

朝8時から始めて、翌々日の午前0時まで、ジャン代と食事代で一人1万円を超えました。


入学式は、参加する気がしなく、入学後の手続きで始めて神楽坂の校舎に行きました。

その日は、新入生の勧誘を各部が行なっていました。

大学に入ったら、ヨット部に入ろうと思っていました。

ヨット部の場所に行くと夏に1ヶ月以上の合宿があると聞いて、急に気持ちが萎えてきました。

参考映像です。

うろうろしていると、綺麗な女性に声をかけられました。

すぐそばで、ダンス講習会をしているので、一緒に行って踊りませんか?と誘われました。

もちろんホイホイとついていき、ルンバやチャチャやジルバを教わりました。

ひと踊りすると男のかたがきて、紙を出してきて、舞踏研究会の入部届だというのです。

やっぱりと思いましたが、すでに舞い上がっている達夫少年は、すぐにサインをしました。


翌週の土曜日に舞踏研究会の初練習に参加しました。

「あれ、この前、一緒に踊った〇〇さんは?」

「あ〜、あれは、さくらだよ〜」「さくらって??」

「あれは、俺の彼女。。。ダンス部じゃない。。」

「いや〜大学というところはすごいなあと思いました。」


それから、二年間は、競技ダンスと飲み会の日々。

参考映像です。

2年からは、ダンスの教習所にパートナーと通いました。

その後、部内の権力闘争があり、嫌気がして、退部しました。

やめたもう一つの理由は、左膝が、ワルツのスムーズな踊りに耐えられなかったからです。

高校時代にサッカーでスライディングをした時に、左膝を強打して内出血になった後遺症かなと思いました。


3年になって、時間があまり、談話室にいると同じ学科の中河さんがいました。

中河さんは、昨年できたテニス同好会に所属していたので、

「僕も入れてくんない?」「いいよ」と入部しました。


テニス同好会は、その後「理科大ミルク」となり、今も続いています。


理科大のもっとも嫌いなところは、普通に勉強している人が、留年するとこです。

何か、留年した学生数が、大学のKPIになっているかのごとく、救済をしないのです。

毎期のテストの初日でカンニングを見つけて、1週間の停学処分を晒し者のように掲げる不思議な大学でした。

その方は、その時点で留年が確定します。

1年から2年に上がる時に、語学以外を1科目でも落とすと留年であったような。。

私は、英語1つ。ドイツ語2つ落としましたが、セーフ。

2年から3年は、OK。3年から4年は、専門を2科目落としているとアウト。

私は、3年の時に、1年の英語1つ、1年のドイツ語2つ、2年の英語1つ、2年のドイツ語2つ、計6科目の語学を通しました。

3年の時の原価計算のテストの時に、舞踏研究会の一年先輩で、留年した先輩が、

「たつお、隣に座るぞ」と言ってきたときに、嫌な予感がしました。

案の定、その人は、私の回答を露骨に覗き込むのです。

悪気はないのですが、そういう要領が悪い方でした。

しばらくして、試験官が後ろから近寄り、私と先輩の肩を叩き、

「キミとキミは、カンニングしない!」目の前が急に暗くなり、

もうだめだと思いました。

先輩が、その後のカンニングをやめたとので、それ以上の注意はなく、無事に4年に進級できました。


4年になると研究室を選ぶという話になります。

成績上位者が優先して、就職力の高い先生のところに行く流れでした。

私は、優が、6個しかなく、選べる研究室は、限られていました。

その中で石川わたる先生の研究室に入りました。

石川先生は、統計学のして権威と有名な石川馨先生ではない石川先生です。

先生は、東洋インキのご出身で、東芝のコンピューター部門の部長も兼務されている不思議なかたでした。

「どんな研究をやりたいかね。」「環境工学を研究したいです。」「そうか、それはいい」

ところで、「水質検査の実務を学びたいのですが?」

「それなら、麻布獣医科大学の環境部の沢田先生に紹介状を書いてあげるよ」

ということで、7月・8月の2ヶ月、大腸菌検査、BOD検査などの実務を学びました。

お金は、払いませんでした。今考えても不思議です。

卒業研究は、境川の水質汚濁改善モデルという、

発生する水質汚濁要因を数値化して、定点観測されているCOD、BODなどのデータから汚濁の改善を数式でモデル化しました。


就職試験の季節になりました。

最初は、学校推薦をもらわずに、オリエントリースに行きました。

役員面接でリースの仕組みをうまく答えられずにNG.

西武百貨店、西友などのバイヤーを受けましたが、これもNG.

石川先生から「テルモの営業職を受けない?」「テルモって?」「仁丹体温計だよ」

「2年前に卒業した先輩の和田さんが活躍しているようだよ」「わかりました。」

「紹介状書いとくよ」というわけで、受けたら、すぐに受かりました。


テルモに入って驚いたことは、営業職は、一年間も研修があるとのことです。

半年は、愛鷹工場。愛鷹工場は、4名で、ローテイションでいろんな職場を回りました。

毎週、工場の先輩が、かわりばんこで富士宮の美味しいご飯に連れて行ってくれました。

富士宮工場に配属された45名は、3交代勤務で、作業員として使われていました。


その後の半年は、営業本部で、業務実習をしてました。

新人歓迎会の席で、営業本部長および幹部方々の挨拶の時に、主任クラスの先輩たちは、正座をして聞いていました。

私は、左膝が痛く、あぐらをかいていました。

その後、あぐらも辛くなり、立膝をして聞いていました。

宴会は、無事に終わりました。

翌日の朝礼で、営業本部のNo.2の幹部から、

「昨日の歓迎会で、本部長の話を立膝をして聞いていた新人がいた」

と春の優しい風が吹くような口調で、話をされました。

内容を聞いてまずいなあと思いましたが、口調が詰問調でなかったので、まあいいかなあと思いました。

その後、上司の課長さんから始めての説教をもらいました。

「会社って難しいところだなあと思いました。」

参考映像です。


本部の実習では、ダイアライザーという透析機の使い捨ての器具を販売する課にいました。

透析の世界は、患者会が強く、患者会が透析に使う機器や使い捨ての器具を決めるところがあるなどの、なまなましいお話を聞きました。

透析患者は、週3回行いますので、一個5000円の使い捨ての器具は、3*52*5200=78万円の売り上げになる。

200人の患者さんがいると1億5600万円の売り上げになる。


実習が終わると埼玉支店に配属になりました。

大病院担当でした。

その後、1年半でYHP(横河ヒューレットパッカード)に転職しますが、

それまでの間、プロパーの教育をさせてもらったり、

1医療品、医薬品、医療機器の販売についての知識を教えていただいたことに感謝しています。