佐久市市民活動サポートセンターで若槻俊一(わかつきとしかず)氏のお話を聞きました。

興味があったので、ググってみると大変な方であることがわかりました。

どう大変かいうと。。。壮絶という言葉が浮かびました。この方についてもっと調べて見たいと思いました。

1。21歳で東京帝国大学医学部へ入学。

2。22歳で学生運動に参加したかどで無期停学。

3。23歳で1回目の「転向」をして復学。絶望的な敗北感を味わう。

4。昭和11年、26歳で東大を卒業するが、どこの医局からも入局を断られ、分院外科の大槻菊男教授に拾われて厳しい指導を受ける。

5。翌年第一師団麻布歩兵三連帯に入隊、満州チチハルに出征。衛生部幹部候補生試験に合格、内地に帰還し軍医学校に学ぶ。

6。昭和13年には肺結核で第一陸軍病院に入院、退院と同時に除隊となる。

7。昭和19年1月28日、治安維持法違反のかどで警視庁に逮捕、目白署に拘禁される。

8。工場災害の研究などで共産主義の煽動したとの嫌疑。しらみに悩まされたが、恐ろしいのはカイセン(疥癬・ダニの一種)で、腎臓をやられ尿毒症を起こし哲学者・三木清、戸坂潤なども拘禁中に死亡している。

2回目の「転向」後、12月下旬、起訴猶予で釈放。自殺も考える。

9。大槻教授は意外にも怒りはせず、「自分は天皇の侍医だから東京に残るが、君のような新しい考えをもった若い者は、次の時代の日本のために働いてほしい」と佐久病院を紹介。

10。昭和20年3月6日、初代の松岡院長と若い女医さんだけの佐久病院に外科医長として赴任。

佐久病院は20床ということだが入院患者はとったことがない。朝から晩まで手術の毎日、入院も増える。

11。あまりにも多い手遅れ患者と農民の健康犠牲の精神を何とかしなければ、と病院からでて出張診療をはじめる。診療の後は演劇や人形劇、コーラスなどで健康教育。

12。農村医学発展の時期。こうで、農薬中毒、農具による外傷、寄生虫病などの農村特有の疾病の研究がすすみ、日本農村医学会が昭和27年に設立。

若月が会長。昭和36年、「冷え」のフィールドワーク。八千穂の佐口地区で15戸の農家に石炭ストーブを入れて3年間観察、血圧、リウマチ、神経痛などに改善がみられた。

13。それまでは蚕や米のお金が入った時に支払えばよかったが、保険の制度が変わる。

医療費の窓口徴収に反対して、八千穂村・井出幸吉村長らと何度も県に陳情に行くがダメ。

それでは病気にならないように健康管理に取り組もう、と昭和34年には八千穂村で全村健康管理を開始。

14。「地域での保健活動を始めたのは、病気を治すだけではだめだ、病気をなくす仕事もやらねばならぬという発想からであった。

しかし巡回診療はその場限りになりやすい。健診を定期的に、しかも村ぐるみで行おう。—- これを八千穂村で初めて行うことになったのである」

15。八千穂村の総医療費は最初の数年は上がったが、その後国、県の平均より下がっていく。

いまでも八千穂の老人医療費は低い。当時の村山厚生大臣、大谷公衆衛生局長(故・前若月賞選考委員)らが視察来院。昭和57年からの老人保健法の基礎データとなる。

 

16。平成18年8月22日逝去。「お別れの会」は10月7日しめやかに執り行われた。