自分が学んできたもの
今まで、自分が学んできたものについて、まとめてみました。
1。テルモ時代
①社会人になって、最初に就職したのは、テルモでした。国内営業部への配属でした。

当時は、医療関係の消耗品(ディスポーザル製品(使い捨ての注射針・シリンジ・輸液セットなど))、血液センター向けの輸血バック、医療機器(輸液ポンプ、分娩監視装置など)、透析関連(使い捨ての透析フィルターなど)などが主な製品でした。
②学んだこと(これらは、今から、40年から50年前の話なので、今の話では、ありません)
・商流:テルモは、代理店販売なので、テルモを出荷した製品が1次店経由(場合によっては、2次店経由)で最終ユーザーである病院に届く仕組みです。
・建前は、自由競争ですが、時々、他の1次店や2次店が安い価格で、見積もりを入れて商流を乱すことがあり、そのあたりの交通整理をする仕事に従事していました。
一方、他社製品をテルモ製品に切り替えるためということで、テルモが特別価格を2次店に提示することが、これが、自社製品の商流を乱すもとの場合もあるということを学びました。
・購買窓口への訪問。こちらの担当をしていたので、大学病院の薬局長や会うたび値下げ要求を口にする大手病院の用度係など、新卒の私には、良い人生の学びになりました。
・これらは、その後、調達の仕事をするときに大いに役に立ちました。
2。YHPからHP Japanの時代
25歳の時に、YHP(横河・ヒューレット・パッカード)に転職しました。

担当は、工場の購買担当(輸入)でした。
当時は、ボーナスが、年間12ヶ月出る会社でした(固定6ヶ月+営業利益の12%)
高周波測定器は、日本の電気電子の大手に、値引きなし・前金のみの販売でした。
それだけ、競争力のある世界で唯一の製品でした。
当時は、その背景をよく知りませんでした。
背景です。
①第二次大戦が始まると、同一は、高性能の高射砲を作り、イギリスやアメリカの爆撃機をどんどん落として、ヨーロッパの制空権を一時、ドイツのものになりました。
②困ったアメリカは、大統領命で、アメリカ中の優秀なエンジニアを招集して、ドイツからヨーロッパの制空権を取り戻す機器の開発を始めました。その中にHewlettとPackardも参加しました。戦後、その期間の発明を参加したエンジニアが、持ち帰り無償で活用できるという画期的な決定が下されました。
このため、HP社が高周波測定器で世界で唯一のメーカーとなり、その子会社のボーナスを破格の金額になり続ける元になりました。

①対レーダー技術: ビル・ヒューレットとデイブ・パッカードの両氏は、対レーダー技術(counter-radar technology)や、砲弾の命中率を高める近接信管の研究に従事しました。これにより、敵の防空網を無効化し、自軍の航空機を守る能力が向上しました。
② 精密な信号生成による通信・電子戦の支援

(HP200A)
・電子計測器の提供: 戦時中、HPは軍のニーズに応えるため、オーディオ発振器だけでなく、波形分析器や歪み分析器、真空管電圧計(Model 400A)などの高度な電子計測機器を生産・供給しました。これらはレーダーや無線通信システムの整備・調整に不可欠なツールでした。
3。HP社の社内教育
HP社は、「社員に機会を与えれば、成長する」という考え方を持っていて、終業時間内に多くの社内・社外教育を受ける機会がありました。
①7つの習慣:こちらは、3日間のコースを受けさせてもらいました。
https://www.franklincovey.co.jp/public_7habits_2days/
②Change Management
当時、製造機能のアウトソーシングが始まった頃で、アメリカの大きな工場が、丸ごとCM(Contract Manufacturing)に売られる事態が嵐のように起きました。そのような中で、Change Managementの考え方が精神的な支柱になっていました。

(Change Managementの気持ちの推移)
https://change-management-japan.org/whatischangemanagement/
4。コーチジングの世界へ
① HPの社内教育にもコーチングという言葉出てくるようになりました。
当時、コーチングの資格を取るには、数十万円かかると言われていました。
そのため、無料か安価なコーチングのセミナーを探して受講していました。
その中で、M’sというコーチングのグループが気に入り、何回か参加しました。
https://coachingms.wixsite.com/emuzu/blank-1
こちらに参加してみると参加者の2/3は、コーチという贅沢な環境で、多くのコーチの方とOJTやセッションをさせていただきました。
調達という仕事をしていたので、大変活用させていただきました。
具体的は、利害関係が交錯する職場(開発部から新製品のコストを下げてほしい。経理部から利益をもっと出すように、部品代を下げてほしい。生産管理からは、部品が不足すると製造ラインが止まり、売上が立たなくなるので、欠品をゼロにしてほしい。サプライヤーさんからは、材料費が上がったので、値上げしてほしい。調達部員からは、こんなに他部署から文句が多い職場なんかやってられない。。。)でした。
つまり、100点(関係する誰からも100点と評価されるという意味)は、取れない職場でした。
そのような職場で、自分のモチベーションをどこに持って行こうか考えました。
結果、「世界最高のバイヤーになろう。評価指標は、QCD(品質、コスト、納期)です。」と思いました。それも他己評価ではなく、自己評価です。絶対評価ではなく相対評価です。
つまり、自分と同じ仕事をする他人のAさんを想定して、常にその人よりも高い結果を出そうと思い続けることです。
これでだいぶ救われました。調達は、ストレスが多い仕事ですが、だいぶ楽になりました。
②コーチングでは、「アンガーマネージメント」が役に立ちました。突然誰かに怒られた時に、相手のどのアンガーラインを踏んだのか?考えるようになりました。すると不思議に「怒り」が鎮まるようになりました。
https://www.angermanagement.co.jp
③「ストレングス・ファインダー」も役に立ちました。チームで活動しているときに、価値観が違うメンバーに、「イラッと」していました。でもそれは、個人の特性の違いであることを知ることで、理解できるようになり、「イラっと」することがだいぶ減りました。
私の特性です。
・活発性
・最上志向
・ポジティブ
・アレンジ
・着想

https://strengths-playce.com/cliftonstrengths/
5。公的機関でのお仕事
①58歳になって初めて公的機関(中小機構)のお仕事をすることになりました。

中小機構の政策(マッチングサイトJEGTECH(ジェグッテック)を広める)と中小企業支援(海外企業や日本の大手企業とのビジネスマッチングでした。

職種は、専門家という名の業務委託でした。同僚は、大企業の元技術部の方や大手商社の方が多かったです。調達からは、私1人でした。
中小企業支援と言っても資格があるわけでなく、大手企業で、調達の仕事で中小企業の方々とお付き合いがあったぐらいです。
実際に仕事を始めてみると調達の仕事と中小企業支援は、とても近いことがわかりました。
1年目は、国内大手企業に発注者側としての登録をお願いする仕事から、始まりました。
購買ネットワーク会で知り合った購買管理職を訪問して、登録をお願いしました。
発注側が少し増えたので、次は、受注側の中小企業の登録の勧誘を行いました。勧誘のリストが配られ、コールスクリプト(営業トーク)を与えられ、毎日、電話をしました。
「コールセンターみたいだなあ」という声が上がりました。
2年目は、海外企業とのマッチングでした。
こちらは、現地政府の中小機構のような組織とMOU(合意文章)を結び、相手の推薦する企業を日本に招聘して、「〇〇国CEO商談会」を開催しました。

(商談会の様子)
来日する企業のプロフィールを確認して、商談成立の可能性が高かそうな中小企業にお声がけして、マッチング会に来てもらう流れです。
中小機構には、本部と地方本部があり、本部のわたしたちが、商談の詳細に深く立ち入ることが難しい様子でしたが、後日、そのようなことは、なくなりました。また、JETROとの関係もありました。

輸出の促進は、JETROのお仕事で、中小機構の海外支援と少しかぶるところがあり、調整が必要であったようです。
また、JICAとも協業があり、ベトナムにおける経営者教育の一環として、最後に日本に来て、中小企業とのビジネスマッチングをすることになり、そのための中小企業へのお声がけの部分を中小機構として請負ったりしました。
JICAの人と会ったのは、初めてでした。JETROの人に比べると「フワッとした」印象でした。

お役所には、ナワバリがあり、その上位のお役所の意向により、変更ありということを学びました。
6。経理の勉強
YHPに入って驚いたことは、事業部の中で、一番偉いのは、事業部長ですが、次に偉い(発言力がある)のは、経理部長でした。コントローラーと呼ばれ、事業計画や予算の取りまとめと施行責任がありました。
資材部長は、製造部門長の下で、経理部長は、製造部門長の上という感じでした。
これは、早く、資材部から経理部に異動したほうが、明るいサラリーマン生活が待っているかもと思い、会社が終わってから、町田の簿記学校に行き、簿記の勉強を始めました。
大学時代から簿記には、興味があり、日商簿記3級から始まり、2級の途中まで自分で勉強しました。サラリーマンがうまくいかなければ、税理士を目指そうと思っていました。
町田の簿記学校には、1年ぐらい通い、簿記1級の試験問題を行うくらいまでになりました。
その頃、社内異動の希望を書く機会があり、「経理部」と書いて、経理部長と面談することになりました。経理部長からは、褒めてもらえると思ったのですが、「経理は、いろいろな仕事があり、それを1つ1つこなして、上に上がって行くんだ。お前みたいに、途中から入っても中途半端で使い物にならない」と言われました。
だいぶ気分を害して、怒りも湧いて、上司の「資材部長」と面談しました。
資材部長からは、「そうか、それは、大変だったなあ。ところで、今度、三宅君を係長補に推薦しようと思うのだがどうだろう?」と言われました。「これは、やられたなあ」と思い。「よろしくお願いします」という話になりました。
ここでの経理の知識は、後日、資材マネージャーになった時に経理部と協力して行く時に大変役になりました。
また、今のみんなのさいわいのファンドレイジング支援でも役に立っています。
以上です。
写真付きの投稿は、こちらです。

