創業のストーリー

三宅達夫の創業ストーリー

みんなのさいわいは、2016年に任意団体として設立して、2017年からNPO法人などの非営利活動団体向けのプロボノ支援を開始しました。

これは、みんなのさいわいの創業者「三宅達夫」が、ソーシャルビジネスの海で揉まれながら、プロボノ支援・ファンドレイジング支援の団体になるまでの道のりを書いた。等身大のストーリーです。

01幼少期の経験

三宅は、埼玉県の飯能市で生まれました。

(写真:小学5年生。飯能市のデパート「丸広」の屋上にて)

父親は、自衛官。母親は、専業主婦の家庭で育ちました。

(写真:自衛隊の入間基地内。父親と三宅。基地の公開イベントにて。)

父親の生まれは、樺太。母親は、広島県の安芸郡の生まれでした。

父親は、戦争中は、通信の部隊にいて、内地で終戦を迎えました。(父親は、浜松高専(今の静岡大学)の卒業生であったようです)

祖父が、朝鮮の馬山(まさん)でお酒を作る会社の工場長を務めていました。(祖父は、お酒の作り方を学ぶ学校に行っていた模様です。学校名は、不明です)

終戦後、船を1艘借り切って、北九州市の若松区へ引き揚げたようです。

父親は、そこに住みながら、貿易会社で通訳をやっていたようです。(青山学院に内地留学(在外の子女が、国内の学校の寮から通う)していたので、英語が少し使えたようです)。

母親の父親は、広島で、冬は、餅屋さん、夏は、氷屋さんをしていたようです。

若くして(40代)で亡くなったようです。原因は、お酒の飲み過ぎのようでした。

祖母には、3人の娘(母親は、末娘)がいて、それらの養育ができる下関の梅光女学院の外国人教師向けの料理人になったようです。(祖母が、なぜ西洋料理ができたかは、不明)

https://www.baiko.ac.jp/university/outline/idea

3人の娘は、無料で、梅光女学院に通い、無事卒業したようです。

特に、マッケンジー先生には、お世話になったようです。

http://baiko-tokyo.com/?p=2659

母親が、亡くなった後に、下関に仕事で行く機会があり、午前中の時間が空いていたので、思い立って、梅光女学院を訪問しました。

事務室の方に、母親が、梅光の出身者であることと自宅にある梅光関係の写真をお渡ししたいとの申し出をしました。

事務の方が卒業生名簿を確認していただき、ご厚意で梅光内の見学をさせてもらいました。

下関空襲で全焼したとのことで、戦前の写真は、貴重な資料となるとのことで、後日、手元にあった100枚以上の写真を寄付しました。

きっと、母親が背中を押してくれたのかなあと思っています。

関門海峡を挟んだ恋が実り、父と母は、結婚したようです。

母は、父親が、酒の飲み過ぎで若死したと思っていたので、酒飲みとは、結婚しないようつもりだったようです。

ある日、母は、父になる人に、「お酒は、飲みますか?」と聞きました。

「今は、飲みません」という答えが返ってきました。

母親は、「昔は、飲んでいたが、最近は飲まないと解釈したようです。」

父親は、「今は、飲まないが、いつもは、飲んでいる」といったつもりだったようでした。

まるで、詐欺のような話だなあと子供心に思いました。

父親は、貿易会社の通訳が合わなかったようで、警察予備隊(のちの自衛隊)ができるとそちらに入り、埼玉県の入間基地に配属されました。

その流れで、飯能市の県営住宅に転居しました。

飯能市で生まれましたが、地縁がなかったので、「少し勉強ができるよそもの」という扱いを受けているような気がしました。

母親は、関節リュウマチを30代で発症して、身体障害者1級でした。

(写真:左から2番目のスカートで足を伸ばしている母。私の幼稚園の観劇会にて)

そのため、左足がくの字に曲がり、歩くのも、びっこでした。

そのため、買い物に行くのは、難儀であったようです。

週に1〜2回、飯能市内までバスで行き、お買い物をするときの荷物持ちを私はしていました。

母親は、病気であるのに、そのことで母から愚痴を聞いたことがなく、外交的で明るい性格なので、いつも周りの友人の人生相談にのっていました。

私が、人助けに興味があるのは、母親の影響が大きいかと思っています。

そんな母親が、50代になるとタバコを吸い始めました。いろいろなストレスを解消する手段であったと思いました。

その後、母親は、エホバの証人に入信しました。幼少期に、梅光女学院で聖書に触れたのが、そのきっかけと思いました。

ある日、「喫煙は、エホバの証人の教えに反するのでは?」と母親に聞きました。

母親は、しばらく黙っていていましたが、少し嫌な顔になりました。

そして、しばらくして、禁煙をしました。この人は、「決意の人」だなあと思いました。

(写真:晩年の母親)

02ボランティアとの出会い

ボランティアとの出会いは、高校時代にJRC部(Junior Red Cross 青少年赤十字部)に入ってからです。

高校は、埼玉県立川越高校でした。

(写真:高校3年生の三宅)

最初は、卓球部に入りました。理由は、中学時代に軟式野球部にいましたが、今ひとつ好きになれず、軟式のボールに当たると痛いので、怖がっていました。結果、レギュラーになれずでした。

受験校に入ったので、軽めの運動と思い、卓球部に入りました。卓球は、小学生の時から遊びでやっていました。我ながら、卓球のセンスはあるかなあと思っていました。

入部してみると、経験者でないものは、全員カットマンにすると担任の先生に言われました。カットマン?それまでカットマンを知りませんでした。

担任の先生の戦略は、「卓球の初心者は、選手になる確率が低い。それなら、経験者がカットマン対策ができるように、カットマンにしてしまえ」でした。

おかげで、上級の選手クラスから、よく練習相手に指名して、もらい、咬ませ犬のように、滅多打ちの毎日でした。

それでも、「いつかは、勝てるようになれる」という根拠のない自信で、卓球に一生懸命励んでいました。

勉強もかなり本気でやっていました。1年末の成績表をもらった時に上位10%に入っていました。

でも、そんな苦しい修行のような生活に疑問を持ち、少し、息抜きをする高校生活にシフトしていきました。

具体的は、麻雀などの大人の遊びを覚えました。また勉強も科目を数学・英語・化学・政治経済に絞ることで、多くの教科の勉強をしなくなりました。

おかげで、総合成績は、どんどん下がり、卒業時には、下位10%になりました。

卓球への情熱も冷めていきました。ある日、卓球部の担任の先生から、「高校時代は、卓球と勉強だけをやっていれば、いいんだ。」というお話を聞いて、卓球部を辞める決意をしました。

卓球部を辞めて、プラプラしていたら、放課後に行く場所がないのに気づき、飯能市の友人の新井くん(あらやん)がJRCに誘ってくれたので、JRCに入部しました。

(写真:JRC部の卒業写真。左から4段目が三宅)

入部するまで、JRCが何をするところか知りませんでした。入ると手話の勉強会に参加しました。

聾話者(ろうわしゃ)の人の支援をする活動です。手話の活動は、ちょっと苦手でしたが、献血は、きれいな看護師さんに感謝されて、自己肯定感が高まり、ヤクルトやドーナツでおなかが満たされるので、継続して行うことになりました。

これが、その後、124回に達する献血活動の始まりでした。

03テルモで知った血液事業の話

東京理科大学の工学部経営工学科を卒業して、入社した会社はテルモ株式会社の国内営業部でした。

テルモを選んだ理由は、研究室の先輩がテルモで活躍していて、そのつてで、研究室の先生の推薦状が効いたのかなあと思っています。

大学生活は、4年間で無事に卒業しましたが、優が9つしかなく、卒業生の中でも最下位グループと思いました。

テルモに入るまで、テルモの実態を知りませんでした。

入ってみて、大変な会社に入ったなあと思いました。

まず最初の6ヶ月は、工場実習でした。新人営業部員の半分(50名)のたった3名だけが、愛鷹工場勤務となり(三宅もその1人)、各工程を順に回り、週末には、職場の先輩に毎週ご馳走になる夢のような日々でした。

残りの50人は、売れ行きの良い医薬品の生産ラインに投入されて、3交替勤務に入れられていました。こちらは、職場の先輩から、ご馳走になることは、なかったようです。

人が足りないとは言え、ちょっとひどいなあと思いました。

次の6ヶ月は、営業実習でした。3人だけが、本部の事務仕事(三宅もその一人)で残りは、営業倉庫で、製品の入出庫業務を6ヶ月行いました。

本部の新人歓迎会で、膝が悪く、正座できずに、あぐらをかいていました。

本部長の挨拶の時に、お酒が入っていたこともあり、あぐらに飽きて、立膝をついていました。

翌日の朝礼で、営業部の次長から、「昨日の歓迎会で、本部長のお話を立て膝をして、聞いていた新人がいた」というお話を聞きました。

その後、上司の課長に、みんなに聞こえる声で、1時間お説教をもらいました。

当時は、学生気分が抜けずに、それでも凹まずに、社内の巡回する社長のまね(後ろ手に組み、体を左右に揺すりながら歩く)を20mくらい離れて行い、遊んでいました。

当時は、輸血がビンからプラスチックバックに変わったころで、空気感染がない画期的な商品ということで、テルモの輸血バックは、日本全国の市場の100%占めていました。通常、血液は。プラスチックに触れると溶血して壊れてしまうのですが、テルモの素材は、特殊で、溶解しない特性を持っていますが、溶着性が悪く、バックの製造工程で穴があくという問題があり、クレーム品が送られてくるのをみる日々でした。

高校生の時に、笑顔とおやつで幸せな献血を満喫していたので、その裏側で起きていることに、世の中は、複雑だなあと思いました。

また、血液事業についても興味が湧き、その事業の問題点についても知ることができました。

例えば、採血した血液は、1つ1つを検査するのではなく、少しづつ集めたものをある程度まとめ行うので、供給が逼迫してもある程度のスピードで提供できる仕組みになっています。

また、血液に含まれている成分を100%完全に検査してから全ての血液を供給していないので、ある割合で輸血事故は、起こり得る可能性があると理解しています。(今は、どうしているかは、未確認です)

このように、善意の献血が常に善意の輸血に繋がらない可能性があることを学びました。

04ボランティアとの再会

日本ヒューレット・パッカードでの購買関連の管理職の仕事が終り、部下なしマネージャーになりました。

その時に、いろいろなボランティアを体験してみようと思いました。

(写真:南相馬の上原投手の野球教室の支援に参加)

(写真:野球教室に参加した上原投手)

ヒューレット・パッカードは、毎年、ボランティア活動の予算があり、社内の有志で企画をして会社の承認を得て実行することになっていました。

社内では、釜石へのIT支援に参加しました。

こちらは、釜石市の外郭団体:釜援隊(かまえんたい)という組織があり、釜石市内の非営利団体と市外の企業等とのマッチングをしていました。

http://kamaentai.org

パソコン関連の支援では、日本マイクロソフトさんとの協業で、PCやOSなどの無償供与とトレーニングを実施しました。

また、その時に、釜石市の語り部の方に東日本大震災のお話を聞きました。

いずれもSNSでも流れてこない、おっとびっくりという話が多くて、多くの人災が、その中で起きていたことを知りました。

また、支援先のNPO法人GBパートナーズさんのウェブサイト構築支援をしたご縁で、GBパートナーズさんの団体内研修で、福島県の震災関連の施設に伺いました。

https://gbpartners.jp

(写真:震災後の福島第一近く駅。支援先の福島研修に参加した時。)

05プロボノとの出会い

会社のボランティア研修で、「プロボノ・レディネス」というのがあり、参加しました。

こちらは、あらかじめ選ばれた5団体の改善案をチームが考えて、発表するというものでした。

こちらに参加した関係で、NPO法人サービスグラントをしり、プロボノ活動にのめり込んでいきます。

https://www.servicegrant.or.jp

06みんなのさいわいの設立

サービスグラントの内部スタッフとして、その実態を知るようになると、自分で、プロボノ支援の団体を立ち上げようと思うようになりました。

今まで、サラリーマン生活で、自分が社長になろうと考えたことは、一度もなく、せいぜい、購買部門のトップになり社長のスタッフになることを目標にしてきました。

そのため、自分の心の動きに少し驚きました。

そのようなことを東横線の渋谷行きの電車の中でで考えていると天から、「名前は、みんなのさいわいがいいかも〜」と降りてきました。早速、「みんなのさいわい」でググってみると特に検索される団体がなかったので、この名前で決めました。

団体の設立とその名前が決まりましたが、その次に何をしたらよいか、よくわかりませんでした。

まずは、仲間を集めようと思い、Facebook友達800人(当時)に、「こんなことするのですか、お手伝いを無償でしてくれる人いますか?」と投稿しました。

結果、10名が集まり、それぞれの人がやりたいことだけをやってもらう。(それ以外は、三宅がやる)というスタンスで始めました。

結果、2016年12月に設立した団体のウェブサイトが、2017年4月には、完成して、サービスを開始することができました。

2017年の支援先は、3団体でした。いずれもサービスグラント時代にお付き合いがあったみなさまです。

当時は、団体としての信用がほぼない中、ご支援の依頼をいただき、とても感謝しています。

2018年には、NPO法人シマフクロウ・エイドさんからご支援の依頼を受けました。

https://fishowlaid.jp

(写真:NPO法人シマフクロウ・エイドさんが、社会貢献者賞を表彰された時に、関係者として。プロボノチームを招待していただきました)

(写真:2019年のプロボノ大交流会(当時は、大感謝祭)の集合写真。

07NPO法人Fineとの出会い。

NPO法人Fineを初めて知ったのは、世界からプロボノ団体が日本に集まるイベントがあり、そちらの関係で、NPO法人Fineの事務所に伺ったときでした。

https://j-fine.jp

その時代表の松本さんは、不在でした。その後、コーチングのイベントで何回かお会いしました。

(写真:コーチングのセミナーに参加した時の松本さんと三宅)

松本さんには、理事の野曽原さん(今の理事長)を紹介していただき、何度かお会いしたり、みんなのさいわいのイベントに登壇していただいたりしました。

(写真:セミナー講師として登壇していただいた時の野曽原さん)

2017年に野曽原さんにお会いした時には、すぐにご支援には、なりませんでしたが、2019年にファンドレイジング支援を始めた時には、最初の支援先となっていただきました。

(写真:Fineを支援したプロボノチームの人文字です)

2020年にもご支援の依頼がきて、みんなのさいわい始まって以来の連続支援となりました。

その後、NPO法人ReMindの河合さんをコーチングの勉強会で知り、NPO法人Fineの松本さんが共通の友人であることもあり、支援に繋がりました。

(写真:昨年9月のインクルーシブフェスタにて、河合さんと三宅)

2023年には、一般社団法人ドナーリンク・ジャパンの仙波さんを松本さんから、ご紹介いただき、支援につながりました。

(写真:ドナーリンク・ジャパンのみなさまです)

08NPO法人銀座ミツバチプロジェクトとの出会い。

NPO法人銀座ミツバチプロジェクトの田中さんとの出会いは、「八幡平ジオファーム」の船橋さんご紹介でした。

(写真:養蜂活動中の田中さん)

https://gin-pachi.jp

船橋さんとの出会いは、NPO法人PVプロボノをみんなのさいわいが支援した時に、良さげなPV2点に選んだからです。

(写真:馬に乗る船橋さん)

https://geo-farm.com

(写真:PVプロボノの代表をされていた新井さん)

https://www.youtube.com/user/pvprobono

田中さんに会いに、銀座の事務所にお伺いしました。その時は、お互いの事業の紹介をして終わりました。

その後、コロナが発生して、銀座ミツバチプロジェクトさんの活動が停滞した時期がありました。その時に助成金の下書き支援をさせていただき、セブン財団の基盤強化助成の採択につなげました。

https://www.7midori.org/josei/

その後も、いくつかの助成金の支援をさせていただいています。

昨年4月に、銀座ミツバチプロジェクトのイベントにて、みんなのさいわいの支援について、お話をする機会をいただきました。

100名くらいの前でお話をさせていただいたところ、10団体くらいの方にお声がけをいただき、NPO法人J’OneWorldさんのご支援につながりました。

(写真;アリさんと大内さん。@バングラデシュの支援している学校にて)

https://www.npojoneworld.org

その後も、NPO法人あきた元気ムラGBビジネスさん、

(写真:山菜の共同出荷の様子)

https://www.akitagenkimura-gb.com

NPO法人マルハチ・プロジェクト、

(写真:環境教育の実施している様子)

https://maruhachi-project.com

一般社団法人Canopyon Initiativeさん

(写真;代表の薬師川さんとケニアのみなさま)

https://note.com/8940121

とご紹介いただき、いずれもご支援をさせていただくことになりました。

09下里さんとの出会い

NPO法人アラジの下里さんとの出会いは、「X」での下里さんの投稿でした。マンスリー会員の募集でした。

妙に刺さり、マンスリー会員になってしましました。

https://alazi.org

その後、下里さんとZoomにて、One on oneでお話をする機会をいただきました。

その時の印象は、「とても考えがしっかりしている」と「自分の信じることを突き進む強さ」でした。

どちらか一つをお持ちの方は、いらっしゃいますが、両方お持ちの方は、稀だなあと思いました。

調べれば調べるほど、素晴らしいなあと思いましたので、第3回のプロボノ・ファンドレイジングセミナーへの登壇を依頼しました。

すると、すぐに快諾のご返事をいただき、無事にセミナーの登壇に進みました。

(写真:セミナー登壇時に使った下里さんのお写真です)

内容は、自団体のノウハウをそこまで出すか?というぐらい開示していただきました。この辺りのセンスもずば抜けているなあと思いました。

その後、アラジさんの寄付イベントに参加して、参加者にどのように寄付をお願いするかを教わりました。

それを早速、みんなのさいわいのイベントで、TTP(徹底的にパクる)させていただき、寄付金額の増加を図れるようになりました。

昨年の10月に名古屋NGOセンター主催のイベントに登壇して、マンスリー会員の集め方のノウハウを開示していただきました。

その中のお話で、マンスリー会員を集める目的は、「団体の基盤強化では、支援者には、刺さらない」とうかがいました。

その事業に直結した「あなたの五千円で、〇〇ができる」というようにすると集まります。というお話を聞きました。

そこで、みんなのさいわいにとっての「〇〇」は、何があるでしょうか?と聞きました。

すると、みんなのさいわいの支援先の受益者数で考えては、いかがというアドバイスをいただきました。

具体的には、みんなのさいわいの支援先の受益者が1万人/団体いれば、10団体で10万人。

みんなのさいわいの経費が、100万円とすると5000円で、500人の受益者を支援できるという計算です。

みんなのさいわいは、マンスリー会員の仕組みを3年前に入れました。会員を増やすためのロジックを考える上で、良いヒントをいただきました。

そのようなこともあり、下里さんにみんなのさいわいのアドバイザーに就任していただけるか、打診をしました。

結果は、快諾をいただきました。

(写真:最近の下里さん)

よろしくお願い申し上げます。

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