エホバの証人について思うこと

最近、ツイッターを見ていたら、日本のトレンドに「エホバの証人」を見つけました。

内容を少し見ました。

自分の母親がエホバの証人の信者であったこともあり、自分から見たエホバの証人について述べてみたいと思いました。

私は、エホバの証人の信者でもなく、元信者でもありません。

 私が最初にエホバの証人という名前を聞いたのは、自分の母親が50代にエホバの証人の勉強会(聖書研究会)に参加した関係で、「目覚めよ」という冊子を見かけるようになったためです。

  私は、当時、中学生でした。あまり、興味もなく、なんとなく見過ごしていました。

 そのうち、母親が信者になるという話を聞き、ああそうなんだなあと思いました。当時の印象は、「集会」に参加するために、聖書の勉強を毎日している母親の姿でした。

母親は、出身がミッションスクールなので、聖書についての親近感があったのかなあと思いました。

当時の母親は、多くの悩みを抱えた普通の主婦であったと思いました。タバコも吸っていました。

身体障害者1級(関節リューマチ)で、くの字に曲がった足で、バスに乗り、街の中心のデパートや商店街でお買い物に行きました。

私は、その付き添い(荷物持ち)で、デパートの食堂で、「たっちゃん、何か飲んでいこうよ」と言われて、コーラフロートを飲ませてもらったりしていました。

私は、自転車に乗れたので、近くの肉屋さんへお使いに行き「とんかつ」を買ったりしていました。

私の家は、個人主義が強く、人に迷惑をかけなければ、各自が自由にして良いとのことでした。

私も自由に好きなことをさせてもらいましたので、母親が好きな聖書の勉強をするのは、母親の自由と思いました。

母親は、聖書研究に没頭している姿は、とても生き生きとしていました。

私が大学生になり車の運転ができるようになると、都合が合えば、集会への送り迎えをするようになりました。

その後、父方の祖父が同居することになり、2DKの県立住宅(6畳の和室2間と4.5畳のDK)に祖父、父親、母親、兄、私の5人が暮らし始めました。

母親は、4.5畳のDK(板の間)に布団を敷いて寝ていました。

そのうち、祖父が聖書研究に興味を持ち、信者になり、集会に行くようになりました。

祖父は、昔の東工大の醸造科の出身で、お酒の技術者として、家族と一緒に、樺太や朝鮮の馬山にいたことがあるひとでした。

さすがに2DKに5人は、狭いので、母親が、知り合いに頼んで、少し離れたところに3DK(6畳の和室2間と4.5畳の和室とDK)の平家の借家を建ててもらいました。

その家は、100万円で建てたそうで、断熱材が入っていなくて、真冬になるとストーブを炊いても、0度くらいになるお家でした。

それでも板の間で寝ていた母親が畳の上で寝られるので、よかったなあと思いました。

祖父がその後亡くなると、お葬式をどうするかという話になりました。お墓は、日蓮宗でしたが、父親と母親が相談して、エホバの証人でお葬式をしました。

骨は、日蓮宗のお墓に入れました。

簡素な式でありましたが、心温まる良い式であったと思います。

多くの信者の方が参加していただき、どの方も腰が低く、清楚な感じな方々でした。

私が大学になると母親から、聖書研究を週1回1時間しないかとの提案がありました。

私は、当時、宗教に興味があり、聖書、仏教の本、コーランの解説書などを読んでいました。

お小遣いを月1万くれるとを条件に始めました。先生は、母親と親しい女性の方でした。

3ヶ月くらい行いましたが、中止となりました。理由は、「あなたは、神を信じますか?」という問いに「はい」と答えられなかったからです。

その後、家族で厚木市の鳶尾団地に引っ越しました。

そこでも母親の活動は続き、会衆の中心的なメンバーになっていました。

ものみの塔の全国大会が、年1回海老名の本部であるのですが、体験発表を2、3回したと思います。

その後、母親の姉が、鳶尾の自宅の土地に1軒家(1DK)の離れを建てて、住み始めました。

母親は、姉を集会に誘い、姉も信者になりました。

姉は、その後、大きな手術をすることになり、輸血をしたので、エホバの証人の信者として活動ができなくなりました。

元々あまり、強い信心もなかったようなので、「ああ、そうなったんだなあ」と思いました。

しばらくして、母親が転倒して、恥骨骨折をしました。

お医者さんから、手術をすれば、また歩けるようになるかもしれない。。でも輸血の許可をもらえないなら、手術はできない。。と言われました。

手術をしないなら、車椅子の生活になると言われました。

母親は、「輸血はしません。車椅子の生活で良いです。」とキッパリと言いました。

家族は、本人の意思を尊重して、そのようになりました。

その後も車椅子で、集会に出かけて、聖書研究も続けました。

その後、父が他界しました。父は、エホバの証人の信者ではありませんでしたので、日蓮宗で葬式をあげました。

母は、その後、特別養護老人ホームに入りました。特養から集会にも参加して、信者の方や友人の訪問も毎日の様にありました。

特養に毎月2回行くようになって気づいたことは、100人の収容されている方で、まともな会話ができる方は、2人くらいでした。家族や知り合いの方が来る方は、少ない様でした。

その中で毎週の集会にお車で迎えが来て、参加して、頻繁に友人が来る方は、とても珍しかった様です。

特養では、入所者の方の習字や絵が張り出してありました。母親の作品が多く出ていました。

(それだけ作品を書ける人が少ないという意味かなあと思いました。)

その後、脳梗塞になり、厚木市内の救急病院に搬送されました。

脳梗塞ですから、血栓溶解剤(血液から作った薬)を使いました。でもこれについては、輸血と認定されなかった様です。

一度退院してから、しばらくして、再度脳梗塞となりました。

その時は、脳梗塞の大きなものだったので、特養には、戻れないかもと言われました。

(特養では、病気の治療が必要な方及び嚥下(自分で飲み込む)ができない方は、戻れない様です)

その時も血栓溶解剤を使いました。

それも1ヶ月で回復して、特養に戻っていきました。

でも、集会には、もう参加できなくなりました。それでも特養には、友人がよくお見舞いに来てくれました。

母親が亡くなると、お葬式はどうしようということになり、エホバの証人の方にお願いしました。

多くの信者や友人の方の同席をいただき、簡素ですが、心温まる式を行なってもらえました。

個人の感想です。

確かに輸血をしないというのは、特別な感じです。

ですが、信者の方々は、皆さん清楚で礼儀正しい方々です。

他人を威嚇したり、暴力を振るったりするところを見たことがありません。

病気や家族のことで悩みが多かった母親が、心やすらかな人生を過ごせたのは、エホバの証人の皆様のおかげだったと思っています。

以上

 

 

 

 

 

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