1月17日に思うこと
1月17日に思うこと
「しあわせ運べるように」を聞いたら、色々思い出してきました。
1995年1月17日午前5時45分頃に阪神淡路大震災が発生しました。
その時、私は、兵庫県三木市の友人の鈴木武さん(たけちゃん)の家の2階でかみさんと息子(5歳)と寝ていました。
最初ぐわ〜と揺れ始めた時に、かみさんが息子を起こそうとしたのを、なぜか「起こすな!」と言って止めたのを覚えています。
なぜ止めたのか、今もわかりません。
息子は、余震の続く中、熟睡を続きていました。後で聞くと三木市は震度5だったようです。
少しおさまったので、下の階に降りるとたけちゃんが起きて、いました。
停電で、テレビがつかなかったので、携帯ラジオをつけて、二人でニュースを聞きました。
大阪:震度6。などの情報がありましたが、なぜか神戸や三宮の震度の発表がありませんでした。
後で震度7で、地震計が振り切れて、測定不能であったと聞きました。
当時は、日本ヒューレットパッカードの八王子事業所の電子計測事業部で購買マネージャーをしていました。
1995年2月1日に八王子の購買部門を分割して、神戸事業所の購買部門を立ち上げる予定でした。
立ち上げ先の購買マネージャーとして赴任する予定でした。
そのために下見旅行でかみさんと息子を連れて、新しくすむ家や息子が入園予定の「てるて幼稚園」を見たり、
神戸や明石のまちの見学をその前日に行いました。
思えば、震災前の神戸や明石の状態を見ることができて良かったです。
その辺りの見学に運転手として付き合ってくれたのがたけちゃんでした。
たけちゃんとは、八王子事業所で資材技術のエンジニアをされていて、
三宅は購買をやっていたお付き合いから始まり会社のテニス部でペアを組んだりしました。
神戸に下見旅行に行くことになり、最初は、西神中央のホテルに宿泊予定でしたが、
たけちゃんから「うちに泊まりなよ」と言われて、甘えることになりました。
たけちゃんと「なんで、神戸(三宮)の震度が発表されないのかなあ」と話していました。
午前8時から停電が直り、テレビが見られるようになりました。
テレビの前に座ったり、寝転んだりしてテレビの映像に流れる震災の状況をみていました。
たけちゃんが、「これは、仕事にならないなあ〜とりあえずうちに居ましょう」と言っていました。
三宅も動ける状態ではないので、たけちゃんと一緒に過ごすことにしていました。
その日で壱番怖かったのは、余震でした。震度3くらいが30回くらいあったと記憶しています。
震度1とかは、百回以上という感じでした。余震が発生するとその度に緊張するので、とても疲れたのを覚えています。
テレビは、死傷者の人数が右上にカウントが表示されて、初日だけで数百人の死者がでたと思います。
また長田地区などの火事が広がっているという感じでした。
まず、自分が考えたのは、自分と家族(かみさんと息子)を安全に帰ることでした。
1月17日は、全ての交通が遮断していて、東京方面への帰宅は困難と思いました。
たけちゃんは、奥さんと近くのスーパーやコンビニを回って、食糧や飲料の買い出しをしていただきました。
コンビニのたなのものは、全部下に落ちている状況で、ものが急速になくなっている状況でした。
近くのスタンドで、ガソリンの売り惜しみが始まったとも聞きました。
たけちゃんの家は、2時間くらいの停電がありましたが、上水もガスも通じていましたので、
しばらくは、お世話になろうかなあと思いました。
翌日、朝5時に起きて、テレビをつけると福知山線の「広野」という駅から、
福知山まで、電車が動いているようでした。福知山から京都まで山陰本線が動いていて、
京都から新幹線が東京まで動いているとの情報でした。
たけちゃんに、「広野」まで送ってくれない?と聞いたら、「いいっすよ〜」ということになり、
たけちゃんのかみさんの「みやちゃん」に、唐揚げとおにぎりのお昼弁当を作ってもらいました。
広野駅について駅員さんに聞くと、「福知山行きの電車は動いているが、時刻表通りではなく、
いつ到着するかわからない」と言われました。
でも、乗ることにして、福知山に到着して、その後、京都から新幹線に乗りました。
新幹線が動き出した時に、「ど〜と疲れば一気にでた」のを覚えています。
夜に自宅に到着して、布団に入ったら、三人とも爆睡しました。
また、翌日には熱が出て会社を休みました。