1月17日に思うこと その2
1月17日に思うこと その2
阪神淡路大震災を三木市で経験して関東に戻ってきてからの話です。
2/1付けで購買機能を分割して、神戸へ移管するという仕事は、3/1からに変更になりました。
そのために1/17から3/1まで東京から神戸へ通いながら、移管準備をすることになりました。
1/17以降、徐々に交通機関やホテルの復旧が進みました。
それでも最初は、三宮から大阪の間で阪急・JR・阪神の3つとも全線回復になっていませんでした。
そのため、大阪から福知山線で三田まででて、三田から神戸電鉄で鈴蘭台に行き、そこからタクシーで西神中央のホテルに行き宿泊しました。
震災の影響で、会社の建物は、免震構造で大きな被害がありませんでした。玄関ホールの代理石のパネルや階段のパネルが落ちて、その復旧に半年ぐらいかかりました。
1/17は、3連休明けの早朝でありましたがその時点で開発部門に3名くらいのエンジニアがいて、
ワークステーションのモニター(当時は大きな立方体)が、地震でゴロゴロ転がっていたとの話を聞きました。
さいわいにも従業員及び従業員の家族に死者がおりませんでした。それでも自宅が半壊などの被害や怪我をされた方がいらっしゃいました。
製造部門は、欠席者がほとんどおらず、1/19には、製品の出荷を再開しました。まさに奇跡と思いました。
自宅や近所の片付けなどが必要な方がいらっしゃいましたが、それらの方々も会社に来て仕事をすることで何かをに憑かれているのかなあと思ったりしました。
特に派遣社員や業務委託の方々の頑張りがすごかったのを覚えています。
当時は、断水やガスが未開通な場所がたくさんあり、お風呂が入れない方がたくさんいらっしゃいました。会社の体育館のシャワーを一般開放して、社員や会社関係者以外のみなさまにも使っていただきました。
そのうち、阪急・JR・阪神の部分復興が進み、乗り換えて歩けば、三宮から大阪まで行けるようになりました。
被害にあった町を歩くと、家が地震で倒壊する場合は、道路側に倒れることが多いのがわかりました。お店の場合、道路側は柱が少なかったり、細かったりするためだそうです。
2月の終わりに引っ越しをしました。相模原の家をお昼ごろに出て、自家用車は、陸送して、私は、家族と大阪のホテルにとまりました。
2月の末は、復興関係者の方々の宿泊が多く、ホテルがなかなか取れず、空いていたのは、大阪のヒルトンのスイートルームだけで6万円もしました。会社の許可をもらい宿泊しました。
自宅は、西神中央の樫野台の社宅(転勤者の空き家)に入りました。
西神中央地区は、開発を一度に行わないため、半分以上の区画が未分譲で開いていました。そこへ仮設住宅が立ちました。
仮設住宅が立つとそこに、仮設住宅に住んでいない人も出入りして、良からぬことをしました。
私の車は、2回ほど車上あらしに合いました。隣の家はお風呂を覗かれました。かみさんは、近くのコープに止めた自転車を目の前で盗まれました。
「ちょっとそれは、私の自転車よ」というと「あんたは、自転車がなくなるだけだろう。わしは、家もなくなってしもうたんや」
というよく訳がわからない言い訳をして、走り去りました。
交番に行き、文句を言いましたが、あまり取り合ってもらえなかったとかみさんが怒っていました。
その方は、仮説住宅の方ではなく、そこに紛れ込んできた方かなあと思いました。
このような話はあまりマスコミに出ませんが、どの被災地でもあるようです。
その後、少し落ち着き、家族旅行で楽しい時間が過ごせました。