私の歩いてきた道。(ソーシャル編 その4)
私の歩いてきた道。(ソーシャル編 その4)YHP入社から神戸赴任まで
テルモ株式会社を大人の事情で退職する前に、もうそろそろ、転職したいなあと思っていました。
当時は、大手新聞の日曜版に大手企業の中途採用の募集が載っていました。
最初に目に入ったのは、「フライトエンジニア募集」アメリカで二年間の研修後、初任給が80万円でした。
当時は、大型航空機の黎明期で、操縦士、副操縦士、とフライトエンジニアの3名体制であったようです。
当時のテルモの給与が、10万ちょっとでした。こんな美味しい話があるものかと。。。
筆記試験や面接をパスして、最終試験に臨みました。
最終試験は、精密な身体検査と英語でした。
特に、斜視の検査は、2度以内ということで、受験生の中には、そのために目の手術をした方がいらっしゃいました。
精密な身体検査の後は、英語のテストでした。
管制塔から英語の質問が来たという想定らしかったです。
聞き取りにくかったので、「Beg your pardon」と2回繰り返したら、
テストは、終了になりました〜
100名の募集に2000名が応募して、最後の150名まで残りましたが。。。。です〜
その後、昨年のボーナス実績、年間13ヶ月という会社を見つけました。
横河・ヒューレットパッカード(YHP)でした。
こちらは、営業職とサービス職という募集で、サービス職で応募しました。
「サービスは、電気・電子の人でないと。。営業はどうだね。」
「営業は、テルモでいい思い出がないので、やりたくありません。」
「それなら、購買をやらないか?」「購買ですか」「いいですよ」
「それなら、頼むよ。あとで、購買を統括している課長さんに面接してもらおう」
ということで、購買職での入社が決まりました。
入社してみると体育会系のテルモから文化系の会社に入ったカルチャーショックで1年くらいは、馴染めませんでした。
HP海外事業部からの部品の輸入をするお仕事でした。
当時は、関税の関係で、部品で買って日本で組み立てると利益になるとのことで、アメリカ各地から、部品を買っていました。
メールは、テレックスという機械にメール本文を打ち込むと夜のバッチ処理で相手に送られるというプロセスでした。
相手も同じ。つまり一日一回のやりとりで、悠長な時代でした。
でも、それでは、必要な時に必要な部品が来ないので、電話をすることになりました。
フライトエンジニアの試験でも明らかなように、英語は全く話せませんでした。
そこで、八王子のETSという英会話学校に行って、英会話を学びました。
横田基地で働く外人さんがアルバイトで先生をやっていました。
私は、Stars and Stripesという米軍新聞を持参してもらい、その中から面白そうな記事についてDiscussionをするという形にしてもらいました。
その頃AIDSが始めて記事になり、説明を受けましたが、さっぱりわかりませんでした。
日本語で内容を知っていれば、なんとかなりますが、全く新しい概念や知識を英語から学ぶむずかしさを感じました。
その後、関税率が、変わり日本で部品を買って組み立てるメリットがなくなっていきました。
そして日本で開発製造している電子計測機の開発購買の仕事を始めました。
ここでは、ビジネスマインドが少ない理科系B型男子とのお付き合いが始まりました。
理科大時代の経験や会社のテニス部での交流があり、それらで、助けられました。
35歳くらいに上司からアメリカに行くから、同行するようにと言われて、
生まれて初めてのビジネストリップを経験しました。
2週間かけて、コロラド周辺を1週間。カリフォルニア周辺を1週間でした。
国際免許を取って、アメリカで初めて運転しました。
アメリカは、右と左が逆だったり、4way stopという日本にないルールはありますが、
それ以外は、道幅は広く、駐車場も広いので、運転は楽でした。
YHPからHPに移籍した人にあったり、メモリアルデイの祝日にリノまでドライブして、
カジノで遊んだり、ショーを見たり、アメリカ文化について教わりました。
リノのホテルの近くのお店の周りのパトカーが止まっていたので近づくと、
アメリカに詳しい会社の先輩から、「三宅、行くな、戻ってこい」と言われました。
?と思い、前をみると犯人逮捕の最中でした。
その後は、一人でアメリカをビジネストリップするようになりました。
その時に気がついたのは、公共の場では、障害のある人が優先されるということでした。
これが、民度の違いかなあと思いました。
また、Equal opportunity (機会均等)を学びました。
アメリカでは、白人の男性がもっとも優遇されているとのコモンセンス(共通認識)があり、
常に白人女性との差別はないか、黒人、ヒスパニック、アジア系との差別はないか
を社会全体が監視しているという感じでした。
アメリカ軍では、兵士の人口比率(人種や男女)で下士官や将官が決まると話を聞きました。
その意味では、優秀でなくても先に出世するという、差別もあるとの見方があるとの話を聞きました。
そんなことをしていると八王子の工場が手狭になったので、神戸に工場を作るという話が出てきました。
この頃になると最初の家を相模原市の上溝に買いました。
買って1年で神戸に赴任しました。
その前に結婚して長男と長女がいる生活になっていました。