私の歩いてきた道。(ソーシャル編 その1)
私の歩いてきた道。(ソーシャル編 その1 生まれから小学生まで。)
もうすぐ63歳です。
今後は、パートタイムのお仕事とパートタイムのソーシャルで生きていく予定です。
私の歩いてきた道について少し書いてみたいなあと思いました。
ソーシャルの観点に重みを置いて書いてみようかなと思いました。
(生まれてから)
1。生まれは、埼玉県飯能市。冬は、秩父おろしが吹く寒い風が印象に残っています。
生まれた家は、市内の県営住宅でした。
水洗トイレ(当時としては珍しい)のある鉄筋2階建の2階に住んでいました。
家賃が、2DKで2800円/月でした。
通常は、2000円ですが、所得加算が、800円あったと聞きました。
2。父親は、航空自衛隊の自衛官。補給関係の仕事のようでした。
見た目は、強そうで、怖そうなのですが、内面は、気弱で、心優しい人でした。
毎日、サントリーのジンかレッドを半分ずつ飲んでいました。
それも、コッブにジンを一口分入れて、一気に飲む、その後コップ半分くらいの水を流し込むという不思議な飲み方でした。
子供なので、お酒ってこういう飲み方をするものなんだなあと思っていました。
ジンのびんは、いつも子供部屋の高い書棚の端においてあり、家人の目を盗んで飲んでいました。
罪悪感からかなあと思いました〜
生きずらかったのかなあと思っています〜
父が友人と会食やお酒で交流する姿をほとんど見たことがありません。
仕事と庭いじりと酒という感じでした。
父は、樺太の生まれです。
祖父が、お酒を作っている会社の技術者で、群馬県にある会社から、樺太工場のに赴任していたようです。
実家にオットセイの大群の写真がありました。
父は、その後、青山学院の中等部に入学(内地留学と言っていたようです。)、
その後、高等部を卒業後、浜松高専で電子工学を学んだようです。
母は、おおらかな人でした。広島県の生まれでした。
祖父が早くに亡くなり、祖母は、梅光女学院の外国人教師向けのまかない婦の仕事をしていました。
その縁で、母と2人の姉は、無償で梅光女学院の高等部まで卒業したようでした。
両親とも英語教育を受けたこともあり、欧米文化には、敷居が低い環境であったと思います。
私が小学校に入った頃に母が、関節リュウマチという病気になり、
左膝が、少しづつ曲がっていきました。
それでも気丈で明るい女性なので、「ケセラセラ。。。なるようになる」と笑っていました〜
ある日に「身体障害者の1級になったよ」と言って、手帳を見せてもらいました。
小学生の頃から母親が飯能市内に買い物に行く時に荷物持ちとして、ご一緒しました。
その後障害者の人とお会いしてもあまり動揺せずにお会いできるのは、
自分の一番身近な肉親が身体障害者であったおかげかなあと思いました。
母は、終戦時に住友銀行の下関支店に勤務していま。
広島の被爆後は、広島支店に応援に行ったそうです。
行くための電車な、満員で窓から、乗り込んだ話を聞きました。
広島では、解約して、預金を下す人がいつも列になっていて、それが定時まで続いたそうです。
解約業務ばかりを続ける日々が続いたようです。
町中に、行き倒れの人や孤児になった子供達がたくさんいて、
目を背けたくなる光景であったとの話を聞きました。
投下後も被爆の影響が残ったとのお話を聞くと、母にもその影響があったのかなあと思いました。
明るい母のおかげで、何も心配せずに育ててもらえたのかなあと思っています。
(幼稚園時代)
幼稚園は、キリスト系のさゆり幼稚園でした。
その幼稚園に行く道をよく馬車が通りました。
馬も大きさとその馬糞の大きさに驚いていました。
また馬は、歩きながらフンをすることにも驚いていました。
(小学時代)
小学校には、特殊学級というクラスは、2クラスありました。
運動会や学校行事を一緒に行うので、どの子がどんな感じなのかなあと思っていました。
その後小学校教育で、障害者の方々を別の学校に入学されるようになったようですが、
やはり、小学校は、一緒の方がいいなあと思っています。
中学から社会人になるまでの続報を待っています😄
ありがとうございます。はい、そのつもりです〜