私の歩いてきた道。(ソーシャル編 その2)
私の歩いてきた道。(ソーシャル編 その2)中学時代から高校時代
(中学時代)
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中学は、飯能第一中学に行きました。
自宅の隣でした。
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野球部に入りました。
少年野球をやっていたわけでもないし、野球が好きでもありませんでした。
でもサッカー部や庭球部やバスケット部より、ましかなあと思って入りました。
そんな意識レベルでしたので、レギュラーにもなれず、
2年まで同じ世代のキャプテン候補でしたが、
3年になってサブキャプテンに格下げになり、挫折感を味わいました。
よかったことは、声が大きくなったこと
(当時の中学野球では、声が大きいことが、KPIでした)
と基礎体力がついたことです。
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中学時代は、自由時間がめっきり減り、母の買い物支援ができなくなっていました。
母は、ものみの塔というキリスト教の勉強を始め、そのうち「伝道」という家庭訪問をする布教活動を始めました。
そのためか、病が悪化していく中で、弱音を吐かず、子育てや家事もちゃんとやっていました。
宗教が人を強くするってこういうことかなあと思っていました。
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(研修学院時代)
小学4年生から中学3年まで、研修学院という塾に通いました。
今から考えても不思議な塾でした。
こちらは、飯能第一中学以外の飯能の中学(吾野、名栗など)
や越生中学からも来る子がいました。
一学年のクラスは、成績上位者のB組とその次の成績上位者のA組でした。
B組は、確か48名くらいだったと思いました。
定期テストの成績で席順が変わるという方式でした。
私は、2番をとって、最後列に行けると思ったら、
よく喋ってうるさいので、「特例」で最前列にも座らされたこともありました。
こちらは、英語の高野先生が、「花は、どこに行った」
Whare has all the flowers gone?を教材に取り上げて、
みんなで歌うという不思議は授業がありました。
また、毎年、近くの原町町内会感で、ご近所のお年寄りをお呼びして、
劇などを披露する会をやっていました。
小学生の時に、金色夜叉のお宮に抜擢されて、
大いにうけて、女装に目覚めたりしました。
(高校時代)
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高校は、川越高等学校に行きました。
第一志望は、兄が通っていた早稲田高等学院でした。
残念ながら、そちらは、落ちてしまいました。
川越高校は、川越から東上線、西武線、川越線に関わるあたりの中学のトップクラスが集まる学校でした。
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高校に入って驚いたのは、勉強して、テストを受けても、
クラスで一番には、なれなかったことです。
小学、中学は、基本的には、クラスで一番でした。
考えてみたら、当たり前ですよね。
でもそんなことが体験するまでわかりませんでした。
クラスで、自分より数学ができる滝瀬君と会ってから、
数学を勉強する気がなくなりました。
すると他の学科も同様になっていきました。
最初に卓球部に入りました。
2年の2学期に、テニス部の顧問の荒井先生から、
「高校時代は、卓球と勉強をやってればいいんだ」
と言われて、卓球部をやめました。
自分には、もっとやりたいことがあるのでは?と漠然と思い、
旧約聖書、新約聖書、コーラン、仏教の本、
列島改造論、共産党宣言などを読んでいました。
西武線で、列島改造論を読んでいると
知らないおじさんから「それっておもしろい?」と声をかけられたり、
共産党宣言を自宅で読んでいると、
自衛官の父から「それは、間違っている」と言われたりしました。
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そんな中、JRC(Junior Red Cross)に入りました。
理由は、卓球部をやめたので、空いた時間にいく場所がなかったので、
JRCの部室で遊んでいたかったからです。
JRCの部長の森井さんは、真面目に、手話を勉強して、
ろうあ学校との交流をしていました。
私は、不良部員として、友達と「こっくりさん」をしたりしていました。
最初に献血をしたのは、高校時代であったと思います。
動機は、やったことないので、やってみましたぐらいな軽い気持ちでした。
献血の価値や意味も知りませんでした。
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高校生の時に2DKの県営住宅から、少し離れた、
一戸建ての3DKに引っ越しました。
引っ越した理由は、父方の祖父が、自宅に来ることになったためでした。
祖母が亡くなったので、世話をする人がいなくなり、
長男である父のところで、引き受けることになりました。
その時は、父の兄弟に押しつけられたのでなく、
母が、祖母の葬式の後、親戚が集まる席で祖父を引き受けると宣言(啖呵を切ってきた)したようでした。
当時の長男の嫁の責任の重さだったのかなあと思いました。
2DKに祖父、父、母、兄と自分で6畳が2間でした。
私と兄が奥の6畳で寝て、隣の6畳では、父と祖父が寝て、
母は、板張りのダイニングに布団を敷いて寝ていました。
そのような生活に耐えられないと考えた母は、
友人の伝手で、3DK(6畳、6畳。4畳半とDK)
の一軒家を近所の地主の方に建ててもらいました。
その家は、冬とても寒く、ストーブをつけても10度。
つけないと零度という凄まじい家でした。
当時の建設費が100万円だったようで、断熱材がほとんど入っていない家でした。
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