Facebook友達の藤田大さんのメッセージを転載させていただきです。

Facebook友達の藤田大さんのメッセージを転載させていただきます。

読んでいて、涙が出てきました。

藤田さんとの出会いは、2014年に福島県のいわき市から富岡町あたりの福島第一・第二の震災ツアーでした。

それまで、釜石とか南相馬には、行きましたが、福島第一は、何と無く避けていました。

でもこのツアーで、たくさんのことを学ばせていただきました。

–以下 藤田大さんのメッセージです。–

あの震災から8年目となる今日。

自戒を込めて書いておきたい。。。

あの日、尋常ではない揺れが収まった時、私は「出番が来た」と思った。各所で炊き出しが必要になるだろうと思った。。。

それは阪神淡路大震災時の、あるエピソードを教えてもらっていたからだ。
要約した文章を見つけたので紹介したい。

人を助けるどころか、助けられっぱなしの7年だったと気づかされる。
関わっていただいた全ての方に感謝を捧げるとともに、これからさらに地域復興に身を捧げることを、改めてここに誓いたい。

◆阪神淡路大震災の神戸で炊き出し
(愛知県碧南市:七福醸造 犬塚敦典社長)

95年1月17日未明、阪神・淡路大震災が発生。すぐに神戸市役所に「片づけの手伝いがしたい」と電話すると、「今は対策本部もできていないし、余震で二次災害が起きても責任が取れないから、来ないでください」と断られた。

しかし夜、テレビで炊き出しの様子を見たので、再度、「うちは食品会社ですから、炊き出しをしたい」と電話。「それなら大歓迎です。食べるものがなくて困っています」ということだった。

すぐに社員を派遣。どこで炊き出しをするか、必要な調理道具は何かを調査させた。

そして、「西三河救援隊」の名で、兵庫県南東部の西宮市を最初の炊き出し場所とし、交替制で社員3~5名を2泊3日で送り込むことにした。

炊き出しは、味噌汁、うどん、豚汁、雑炊とし、残った社員でまず500食分の食材の買い出しと下ごしらえをした。

油揚げもネギも大根も、最初はスーパーで買っていたが、一カ所で買うとほかのお客さんの迷惑になるため、時間をかけて何軒か回り、豆腐屋さんや農家からも分けてもらった。

豆腐屋に行ったとき、500食分の油揚げをもらった。払おうとすると、お金を受け取ってくれない。

何度言ってもだ。仕方なく「1月いっぱいはそうさせていただきますが、2月からはお金を受け取ってください」と言った。

2月になった。払わせてくださいと言ったところ、「七福さん、いつまでやるの?」と聞いてきた。

「寒い間はやります」というと「では、私も付き合う」と豆腐屋は最後までお金を受け取らない。

日がたつにつれ炊き出しの量も増えてきたので、別の豆腐屋に行って頼むことにした。

「前の豆腐屋さんでは、いくらで買っていますか」と聞かれたので1枚10円というと「6円でいいです」と言う。

翌日、受け取りに行ったら、30㎏入りの砂糖の袋に入った油揚げが用意されていたが、不良品だから半袋分の代金のみで結構ということになった。

会社に帰って、近隣の主婦と社員が一緒になって刻む。しっかりした油揚げだったので不良品であることにみんな首をかしげた。

主婦たちが同じものを売っているのを見て、不良品ではないことに気づき、翌朝「社長、あれは商品ですよ」と言い始めた。

そこで豆腐屋に行って、「あれは商品だとみんな言っています」と言った。

すると女性社長が、「私たちも神戸の炊き出しに協力したい」と言う。

そして「不良品と言わなきゃ持って行ってくれないでしょ」と。それを聞いた当社の二人の女性社員と女性社長の3人は泣きだした。

ネギも1000本の約束なのに、行くと1300本がびしっときれいに揃えてある。

「数が多いですよ」と言うと、「私の気持ちだ。持ってけ」の一言。

大根も全部洗ってパレットに縛って積んであった。しかもお金を受け取ってくれなかった。

肉屋さんも豚肉を買いに行ったら、半値で分けてくれた。

ニンジンもあの年は値が高騰して手に入れるのが大変だったが、毎日30㎏を七福醸造の出入口に置いていく人がいた。

敦典に見つかるとお礼を言われるからと、そっと置いていったという。

困った人がいたら精一杯助ける人が、日本人の中にはいっぱいいるのだ。

そうして入手した食材を社内の調理室で、近隣から集まった主婦の方たちと社員で刻んで神戸に運び、早朝から調理して被災された方たちに配った。

涙顔のおばあさんに、手を合わせて「ありがとさん、ありがとさん」と言われた女性社員は、おばあさんの肩に手をやるだけで、がんばってくださいの声も出ませんでした。

会社に戻ってきて「あんなに感謝されたのは生まれて初めてです」と、敦典の前で涙を流した。敦典も毎日感動して泣いた。

1日500食から始め、その後1000食、1200食と増やした。

ただ、少ないときで社員の4分の1、多いときで3分の1を動員していたから、経理担当の役員が「ボランティアの人も増えてきているので、社員の人数を減らしてください」と敦典に言った。

敦典は「応援する人が増えているということは、天からのもっとやれというメッセージだ」と突っぱねた。

そして、「3000食でも5000食でもやらなければならない」と言った。

すると、本当に3000食を約束してきた。朝3000、昼2000、夜3000と1日に8000食になったこともある。

想像を絶する体験だった。38日間にかかった費用は1200万円くらいになった。

経費がかかるから、「このままいくと会社が潰れます」と言う幹部社員もいた。そのときも、「潰れたらまた興せばいい」と敦典は突っぱねた。

なぜ、そこまでやるのか。困っている人がいたら助けるのは当たり前だからだ。

助けの手を差し伸べられるのは幸せなことだ。食材の買い出しのときも思ったが、日本人はみんなそういう気持ちを持っていると。

「西三河救援隊」に参加したいと、近隣の会社は照明機器やテントを持ってきてくれた。

碧南市の中学生の方たちは、大根などを取りに来て、学校の調理実習室で刻んでくれた。

婦人会の方たちは、包丁・まな板を持って参加し、会社の二階にある調理研究室で作業してくれた。

会社全体が、小口切りにしたネギの臭いでいっぱいになった。

この炊き出しで社員は「うちは他の会社とは違う」という誇りを持ったのだろう。

敦典の「人の役に立つ会社になろう」が建前ではなく本音だということを知った社員たちは、「社長は口と腹が一緒だ」と話していたそうだ。敦典は「会社が一つになった」と感じた。

この炊き出しは、愛知県の中学校の道徳の教科書にも載るエピソードとなった。

最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
これからもお力添えのほどお願いいたします。

藤田大「感謝!!!」

オリジナルは、藤田さんのfacebook Pageでどうぞ。

https://www.facebook.com/fujita.dai

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