私の歩いてきた道。(ソーシャル編 その7)HP再入社からプロボノに出会うまで。

HPに入る前にHPとEDSの合併のプロセス(インテグレーション)がありました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/Electronic_Data_Systems

HPとEDSは、同じようなサービス事業をしていました。

EDSは、世界第2位。HPは世界街4位でした。

HPに入るとアジレント時代の友人が社内に数十名残っており、それらの方々に助けられることが多かったと思います。

合併後は、HP+EDS全体の間接購買の商材管理のマネージャーになりました。

その後、国際調達本部の本部長の石井さんが定年退職されるとのことで、そちらのお仕事を担当することになりました。

1年後に管理職から担当マネージャーになりました。

管理職では、土日でも、自分の組織の維持・発展の可能性を考え続けるところが、ありました。

その責任が解かれてから、平日の夜や土日の時間に余裕ができるようになりました。

前々から関心があった、社会貢献活動を始めようかなと思いました。

でも自分にどのような適正があるのか、また自分の居場所があるのかなと思いました。

しばらく考えましたが、結論が出ません。

それなら、できるだけたくさんのボランティアを行なっていく中で、

取捨選択ができるかなあと思いました。

長年ケンケツをしてきましたので、赤十字のボランティアがないか、ググってみました。

ボルダリング。視覚障害の方にもわかりやすように、ラインを入れてます。

すると二俣川にライトセンターというところがあり、そこで、視覚障害者支援ができることがわかりました。

http://www.kanagawalc.org

こちらは、まず、平日の昼間にある「入門講座」(2時間を2日にわたり、計8時間)を受講した後に、

それぞれの専門部の講座(2時間を2日にわたり、計8時間)を受けてからやっとボランティアができるという体制でした。

丹沢湖にて。

私は、レクレーション部(視覚障害者の方とカヌーに乗ったりハイキングをしたり、餅つきをしたり)

とスポーツ介助グループ(ブラインドピンポンなどを支援する)に入りました。


丹沢湖に1泊2日して、カヌー活動を行なったのが、楽しい思い出です。


視覚障害者支援では、「障害者の目の代わり」をするようにと言われました。

「自分で判断したり、自分の好みを押し付けないようにという意味です。」

母の付き添いをした経験が生かされたのかなあと思いました〜

HP社内でもボランティア活動が活発にされていることを知りました。

活動は、社員がリードして、賛同者を募集するパターンとHPの上位方針で行うのの2種類がありました。

釜石にて、左は、釜援隊の中村さん。

前者では、釜石支援がありました。

震災後、東北の市町村に会社としての支援を申し込んだところ、

対応する工数が取れないので、辞退したいとの話が流れてきました。

釜石市は、市の外郭団体の「釜援隊」が、釜石市などとの橋渡しをしてくれて、支援に行ける体制ができてきました。

http://kamaentai.org

私が、釜石の支援に入ったのは、2013年からと思います。

社内で、ボランティを募り、20名くらいのチームを作り、

ITスキル支援やコミュニケーションスキル支援の講座を開きました。

最初に行った時は、まだお宿が少なく、町内会館のようなところに宿泊しました。

行った日が、楽天イーグルスの初優勝の日で、外のお店でテレビを見ていて、

宿に戻るのが遅れて、お風呂に入れないかもと思いました。

初日は、震災の語り部の方が、震災の様子や、当時の状況を説明してくれました。

①釜石の地震は、震度6で、地震でお亡くなりになった方は、いなかった。

②地震から津波の到達まで、30分あった。

地震発生時に全員が、「津波てんでんこ」(バラバラでも良いから、高台に脇目もふらず、一生懸命逃げよ)を守っていたら、

被害者の人数はかなり少なかった可能性が高いようです。

③津波の被害に会った方は、

*自分の車を置いて、逃げれなかった人。

*パチンコで勝っていたので、やめられなかった人。

*一度、避難したが、自宅の戻った人。

④津波の高さは、湾口で10メーターくらいですが、湾の奥では、30~40メートルに達した。

⑤「鵜住居防災センター」の悲劇 。

本来公民館を作る予定でしたが、予算が取れず、予算が取れる「防災センター」に変えて建設した。

防災センターにしたから、避難訓練もした。

3階に上がる鉄の階段の最初のステップを人が、登れないような高さにした。(いたずらで3階に登る人がいることを心配して)

http://www.bosaijoho.jp/institution/item_6715.html


⑥防災無線は、最初、津波は、低いという放送をした。

その後、防災放送の機械が壊れて、高い津波が来るという放送ができなかった。

⑦湾口では、津波が視認できるが、湾の奥は、川が蛇行して、津波の到達の発見が遅れた。

⑧釜石は、1200億円かけて、海上に防波堤を作った。

それが安全神話を生み、湾口に警察署などの公共の建物を建てた。

それを見て、民間の方もビルや家を建てた。

その堤防が、役に立たず、被害を大きくした。

https://ja.wikipedia.org/wiki/釜石港湾口防波堤


⑨リアス式海岸のエリアでは、明治、大正、昭和と大津波の経験があった。今回は、その経験が生かされなかった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/明治三陸地震


その他に、ニューヨークから帰国した上原投手が、南相馬で子供野球教室を行う話がありました。

その子供たちをチームごとにHPのスマフォで写真とり、HPのプリンターで印刷して手渡しするというサービスをやりました。


会社方針で行なったものには、「Matter to A Million」たくさんの中小事業者の支援の日本のリーダーの一人をやりました。

これは、HP財団が、全てのHP社員(30万人くらい)に25ドルの貸与権を与えて、

自分が支援したい予め登録された世界中の小規模事業者に、KIVAというエージェントを経由するという活動です。

http://www.kivajapan.org/index.html?page=1&per_page=24&status=all

マイクロファイナンス(小口融資)の一つです。

もちろん、25ドルでは、少ないので、

例えば、予め決められた期限までに、100人が支援して、2500ドルに達成すると、その貸与が始まるというものです。

私は、計6回くらい貸与したかなと思っています。


プロボノもグローバルからの依頼があったようです。

アメリカでは、社会人の知識と経験を生かすプロボノが、一般的です。

日本HPではまだ活動が少なかったので、サービスグラントに「Probono Readiness」プロボノ研修のようなものを依頼しました。


参加してみて、これこそ、私の経験とスキルが生かせるぴったりのボランティアだと確信して、

サービスブラントのプロボノワーカー登録を行いました。